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心の底から、嫌な季節になったと思う。

「──へくしっ!」

色気もへったくれもない豪快なくしゃみをひとつ、鼻をすすって、シエテはがっくりと溜め息をつく。

この時期になると毎年こうだ。性懲りもなく空気中に飛散した浮かれポンチの花粉どものせいで、目は痒いわ洟は止まらないわで散々なのである。瞼が重そうに弛んでいるのが、鏡を見なくてもわかる。そのせいで同僚には「眠いの?」と揶揄され、上司には「やる気が感じられない」と注意され、まったくもって面白くない。こんな体質に生まれてしまった己の不甲斐なさをシエテは呪うばかりであった。

きょろきょろと辺りを見渡して、周囲に──ヒーロー協会本部のエントランス・ホールに人の気配がないことを確認し、今の醜態を誰にも見られなかった安堵に胸を撫で下ろしたのも束の間──背後から歩み寄ってきた影が、彼女の油断を打ち砕いた。

「いよう、シエテ」

突然かけられた声にびくりと大袈裟に飛び上がりつつシエテが振り向くと、そこには見知った顔の男がいた。シエテでなくとも、ランドセル背負った小学生だって彼の風体に見覚えくらいはあるだろう。彼を知らない者など、現代社会においては少数派に入るはずだ。それくらいの有名人だった。

「あ……アトミック侍さん……お疲れ様です」
「お前もな。なんだ、仕事中か?」
「ええ、そうです。……珍しいですね、本部にいらっしゃるなんて」
「ちと野暮用があってな。イアイたちも来てるぞ」

かの宮本武蔵か佐々木小次郎を思わせる、侍のような風貌で、腰には愛刀を差している。羽織からは歴戦の貫録が滲み出ていて、シエテは彼と会う都度その迫力に平伏しそうになるのだった。

「野暮用ですか」
「他のヒーローたちに、ちょっとした講義というか……剣術の稽古みたいなことをな。地下に広い体育館みてェな部屋があるだろ。あそこでやってんだ。担当の幹部のヤツは、なんだったか、戦力強化のための交流会だって言ってたな」

話によると、テレビ局から取材陣も来ているらしい。そりゃそうだろう。アトミック侍だけでなく、彼の弟子であるイアイアン、ブシドリル、オカマイタチだって人気の高い上位ヒーローなのだ。彼らが一堂に会して、その超人的な剣技を披露するとあれば、話題性は想像に余りある。恐らく協会サイドには、そういったエンターテイメント的な刺激を大衆に与える狙いもあるのだろう。注目が集まれば、比例して寄付金も増える。まあ当事者の彼らは、そういった裏事情には、一切の興味がないのだろうけれど。

「そうだったんですね。大変そうで」
「最近はどうも怪人が増えてきやがってるからな。今のうちに若い連中を鍛えておかねえと」
「オジサンみたいな台詞ですね」
「馬鹿を言うな。俺ァまだ三十七だぞ」
「……そうでしたね」

本気なのか冗談なのかわからなかったので、シエテは突っ込まずに流しておくことにした。

「それなら、こんなところ歩いてていいんですか? もう終わったんですか?」
「いや、まだやってる最中だぜ。頼れる弟子に任せてきた。俺は休憩だ」
「はあ……休憩ですか……」
「技術を他人に教えて伝えるってのは、己が学ぶことにも繋がる。あいつらにゃ、いい経験になるだろ」

男らしい顎髭を撫でながら、アトミック侍は感慨深げに口の端を緩めている。機嫌がよさそうだ。シエテもつられて顔を綻ばせたが、それと同時に鼻腔の奥がむず痒くなって、堪えようとする間もなく、盛大なくしゃみをぶちかましてしまった。

「ぶえっくし! へくしっ! ……ひっく」
「なんだ、お前、さっきもくしゃみしてたなあ。風邪か?」
「……花粉症ですよ」

鼻声で返したシエテの言葉に、ああ、とアトミック侍は得心いったふうに頷いた。

「そういや、もうそんな季節だなァ」
「困ったものです。本当に」
「しかし豪快だったな、今のくしゃみ」
「すいません、忘れてください」
「いいじゃねえか。子供みてェで、かわいらしかったぜ」
「やめてくださいよ、もう」

シエテだって、彼ほどではないにしろ、そこそこいい歳なのだ。そんなことを言われたって嬉しくはない。

「嘘じゃねーんだがなあ」
「なおさら恥ずかしいですよ」
「女ってのァ、かわいいって言われりゃ喜ぶんじゃねえのか?」
「それは人それぞれです」
「そういうもんか……こりゃあ、俺の勉強不足だな」

なぜか深刻そうな面持ちで考え込むふうにしているアトミック侍に、シエテは不思議そうに小首を傾いだ。他愛ない雑談なのだから、そこまで真剣に反省する場面でもないだろう。ましてや自由奔放で、個性的な人材が揃ったS級ヒーローのなかでも人の話を聞かないマイペースさに定評のある彼である。そんな男が小娘の戯言に耳を貸して、いたって真面目に受け取るだなんて──天地が引っ繰り返りかねない。

「そろそろ戻った方がいいんじゃないですかね?」
「ああ、そうだな……お前も仕事がんばれよ」
「ありがとうございます」

朗らかな労いに一礼して持ち場に戻ろうと踵を返したシエテを、アトミック侍が呼び止めた。

「なあシエテ、今度よォ、花見にでも行かねえか」
「……今さっき花粉症だってお話しましたよね?」
「おう。お前のかわいいくしゃみがクセになっちまってな」
「そろそろ怒りますよ?」
「いいじゃねえか、減るもんじゃなし。出し惜しみすんなよ」

愉快そうに肩を揺らしている彼に、シエテも毒気を抜かれてしまい、相好を崩さざるを得なかった。

「あんまりそういうことばっかり言ってると、女の子に嫌われちゃいますよ」
「お前もそうか?」
「私は別に、そうでもないですけど」
「じゃあいいさ。お前以外は、からかう気にならん」
「もう、人のことをオモチャみたいに……」

ぷうっと頬を膨らませたシエテに、アトミック侍はさらに笑った。

「はっはっは、お前が怒ったって、ちっとも怖かねえな」
「はいはい、そうですか。私もう行きますからね」
「考えといてくれよ、花見の件」
「えっ? ジョークじゃなかったんですか?」

シエテは思わず、きょとんと目を丸くしてしまう。

「当たり前だろ」
「えっ……あ、そうですか……」
「俺はつまらん嘘をつく男じゃないぞ」
「はあ……」
「そういうわけだ。また近々、お前に会いに行くからよ」
「……お待ちしてます」

シエテの返事にアトミック侍は満足そうに大きく頷いて、彼女の頭を犬猫みたいにわしゃわしゃと撫で、そして羽織の裾をひらめかせながら堂々たる足取りで去っていった。その後ろ姿を呆然と見送りながら、シエテは乱れた髪を手櫛で直す。自分のものとは異なる、鍛え抜かれた固くて分厚い掌の感触がまだ残っている。その無骨な体温がいつまでも残って離れず、シエテの耳がじわじわと朱を帯びていった。

「……嘘をつく男じゃない、か……」

かわいい、とか。
クセになっちまった──とか。

そんな殺し文句をぬけぬけと宣っておいて。

「敵わないなあ、本当……」

シエテは誰にともなくひとりごちて、オフィスへ戻るべくエレベーターを目指しながら、次のオフがいつだったか脳内でスケジュールを反芻していた。その前に美容院に行って、欲しかった春物のワンピースも買って、駅前に新しくできたネイルサロンにも出掛けよう。彼は絶対に嘘をつかないのだという。がっかりされないよう、細心の注意を払って、きらびやかにお洒落しなければならない。シエテの足取りは咲き誇る花々のあいだを飛び交う蝶のように自然と弾んでいた。

春の到来を告げる温かい微風が、こんなところにも──








(二度ベルを鳴らす ニヤリ笑う正体は)
(フラメンコ色の目 無精髭面)

おあずかり甘い夢

(今日もめくるJOKER)
(しびれ切らした夜の訪問者)



GIGOLO - EGO-WRAPPIN'



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