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最寄り駅から徒歩三分のところに、Z市が誇る公営球場は堂々たる佇まいで聳えていた。卵の殻を縦半分にカットしてそのまま載せたような楕円形のドームが特徴で、完成当時は有名なデザイン賞を取ったとかで随分と話題になった。本来の目的である野球の試合のみでなく、アイドル歌手のコンサートやフリーマーケットなどのイベントが開催されることもしょっちゅうで、日夜この周辺地域は活発な賑わいを見せているのだった。

球場のそばに併設されたショッピングモールも、同じように繁盛しているらしかった。ジェノスとヒズミが休憩がてら入った喫茶店のテーブルは、ほとんど客で埋まっていた。運よく空いていた喫煙席の隅を陣取って、少し遅いランチを食べながら、のんびり一服と洒落込んでいる。

「開場まで、あとどれくらいあるんだ?」
「んーと、確か四時だから……三十分くらいかな」
「もうそろそろだな」

残り少なくなってきた夏野菜のカレーをスプーンで集めながら、ジェノスは腕時計を確認した。今日は人が多く集まる場所に出掛けるということで、ロックフェスの際にも装備したボディの改良版に換装している。ベルティーユに頼んで借り受けたのだ。ちょうど彼女もバージョン・アップしたそれの動作チェックをしたかったところらしく、快く二つ返事で貸し出してくれた。

限りなく本物の人体に似せて造った合成樹脂の義体に、人気選手のレプリカ・ユニフォームを纏っていると、どこからどう見てもジェノスは「野球を見に来た普通の青年」だった。とても彼がサイボーグだとは──ましてや人々の憧れの的であるS級ヒーローだとは、誰も思わないだろう。不測の事態に備えて探知機能を落とすわけにはいかなかったので、眼球パーツだけは本来のものを使用しているから、そこを隠すためにハーフリムのサングラスを着用してはいるけれど、大して不自然というほどでもない。

「そうだね。公開練習も見たいから、早めに行かなきゃ」

向かいに座っているヒズミも、ジェノスと揃いのシャツを着ている。プリントされている名前と背番号が違うだけで、柄はまったく一緒だった。とにかく人目を引いてしまう頭を隠すためにサイズの大きいキャップを目深に被り、マフラータオルを首に巻き、それでもだいぶ余る長い白髪を襟からシャツの中に入れて、どうにかこうにか隠している。単純な風体だけでいうなら、ジェノスよりもよっぽど彼女の方が怪しかった。

「楽しみだなあ。生で観戦なんて、もうどれくらい振りだろ」
「前はよく来ていたのか?」
「まあね。そんなに頻繁じゃなかったけど、月に一回くらいは行ってたと思うよ」

食後のアールグレイで唇を湿らせながら、浮かれた様子で笑っているヒズミの姿に、つられてジェノスの口角も緩む。心から楽しそうな、幸せそうな彼女を見ているだけで、心が満たされていくのがわかる。

「また球場に来れる日がくるなんて、夢みたいだな」
「夢じゃない」
「わかってるよ」
「これからはいつだって、また観られるだろう。俺と」
「自分もついていくのは確定事項なんだな」
「……嫌なのか?」
「ううん。ひとりだと寂しいからさ」

ふにゃりと目を細めるヒズミの照れくさそうな仕種に、ジェノスは脳天を撃ち抜かれた気分だった。彼女のこんな表情が拝めるのなら、毎日だって球場に足を運んでもいい。いっそ球団を所持している親会社の株を買い占めて、株主優待の特権を駆使して全試合のチケットを確保してやろうかと本気で思った。

「吸ってもいい?」
「駄目だと言っても吸うんだろう」
「さすがに食事中は我慢するよ」
「少しだけならいい」
「そうこなくっちゃな」

流れるような所作で一本くわえて、ヒズミは先端に火を灯す。公共の場所なので、ちゃんとライターを使った。

「なにはともあれ、楽しみだなあ」
「そうか」
「ジェノスくんは興味ないから退屈かもね」
「いや、……俺も楽しみだ」
「気ィ遣わなくてもいいんだよ?」
「嘘じゃない。本心だ」

なにしろヒズミとふたりっきりなのだ。
あのロックフェスで、大騒動に巻き込まれながらもヒズミの新しい一面を知れたように──今日もまた、これまでに出逢ったことのない彼女と遭遇できるかも知れない。純粋な好奇心と飽くなき探求心、そしてほんのちょっとの下心で、ジェノスもまたうずうずと胸を弾ませているのには、変わりないのだ。



ドーム内のビジター席に入って早速、ヒズミは持ってきたデジカメを構え、グラウンドで汗を流す選手たちを激写しはじめた。その隣で荷物持ちに徹しながら、ジェノスは複雑だった──彼女がはしゃいでいるのは歓迎すべきことだが、その対象が自分以外の異性だというのが面白くない。そんなにむさくるしい男どもの腕立て伏せが珍しいのか。やる気なさそうなキャッチボールが愉快なのか。それくらい俺だって、いや、俺の方が上手にできるぞ、と不満を抱いてはいても口にしない。男の嫉妬は見苦しいというのは、太古の昔から語り継がれている決まり文句だ。

開場したとはいえプレイボールの時間まではまだしばらくあるため、グラウンドを一周ぐるりと取り囲む観客席に、人の影は疎らである。ヒズミいわく、平日のナイターなので仕事や学校が終わってから来る者が多いのだという。

真剣な表情で撮影に勤しんでいるヒズミの隣では、小学生くらいの腕白そうな少年が固まって、柵の手摺りから身を乗り出さんばかりにグローブをはめた手を翳して「ボールくださーい」と選手たちに声を掛けている。そんなことをしていいのかどうかはジェノスの知ったことではなかったが、本人たちはいたく楽しそうなので、あれはあれでいいのだろう。

「あっ」
「どうした、ヒズミ」
「いま出てきた18番のあの人、今日の先発だよ。相変わらずフォームがキレてんなあ。かっくいーや。私あの選手が好きでさ、ずっと追っかけてんの」
「………………………………」

できるなら聞きたくなかった情報だった。
憮然と口を尖らせているジェノスに、ヒズミは眉尻を下げた。

「ジェノスくん、疲れたなら座ってていいよ? チケットに書いてあるから、指定席の番号……」
「いや、俺もここで見てる」
「でも退屈じゃない?」
「退屈じゃない」
「でも」
「見てる」

ジェノスがこうなったら梃子でも動かないのは、短い付き合いながらヒズミにもわかっている。それ以上はなにも言わず、苦笑しつつ撮影に戻った。なんとなく彼が機嫌を損ねている原因には心当たりがあったので──認めるのはいささか気恥ずかしかったけれど──しょうがない、もうちょっと構ってやるか。ヒズミはやれやれと肩をすくめた。こういうときは、年長者が折れてやらねばなるまい。

あと五分くらい経ったら、相手チームの練習に交代するはずだ。そうしたら、まあ、ゆっくり話し相手になってやろう。試合が始まる前に、素人のジェノスに教えてやらないといけないことがたくさんある。

ひとくちに野球観戦といっても、暗黙のルールや掟のようなものが山ほどあるのだ。球場では初心者向けに、選手ごとの応援歌やチャンス・タイムの掛け声などが書かれたプリントを配っていることが多い。お世辞にも強豪とはいえない、久しく優勝争いに絡んでいない地味なチームなので、そういった新規ファン獲得のための根回しには必死なのだ。さっき公式応援団に所属する男性をちらっと見かけたので、探してみよう。ヒズミはそんなことを考えつつ、トレーニングの合間にじゃれあう選手に向けてシャッターを押した。

「あとでショップも覗いてみよっか」
「ああ、そういえばグッズの売店が通路にあったな」
「そうそう。今シーズンから新しく出たトートバッグ買いたいし、あと今度バングさんの道場にお呼ばれするだろ。お土産も用意しとかなきゃな」
「呼びつけてきたのはあっちなのに、そんなもの必要か?」
「そういう問題じゃないって。大人の礼儀。……まあでもどうせ安いお菓子だし、恩着せがましく礼儀とか言えたもんじゃねーけど」

やがて交代の頃合いになって、選手たちがベンチに撤収していった。代わりに反対側のベンチから相手チームの軍勢がわらわらと出てきて、どうやら気合い充分らしい彼らへ、ヒズミが威嚇するように「べーっ!」と舌を出した。あちらから見えちゃいないのをいいことに、向こうの先発ピッチャーに対して『フォアボールを連発する呪い』と称して妙ちくりんな踊りを始めた。近くで見ていた小学生たちも面白がってグローブを装着したままヒズミの真似をしはじめて、なんだか変な儀式みたいになった。

「その辺にしておけ」
「ジェノスくんも踊ってよ」
「遠慮しておく。売店に行くんだろう?」
「おっと、そうだった。こんなことしてる場合じゃなかった。それではジャリボーイたち、また会おう」

いまだ踊りながらけたけたと笑っている少年たちに別れを告げて、ヒズミは場外の通路に繋がる出入口へと階段を上がっていった。その後ろをジェノスも追って、隣に並んで、無防備に垂れ下がっていた彼女の手を前触れなく握った。

「ちょっ」
「どうかしたか?」
「え、いやっ、ジェノスくん、あの、手」
「俺はここに来るのは初めてだからな。迷子になるかも知れない」
「……また白々しいことを……」

ほんのり頬を赤く染めているヒズミの抗議を黙殺して、ジェノスはずんずんと歩いていく。後ろから小学生たちがヒューヒューと茶化してくる歓声にも、いたたまれなさそうに背中を小さくしているヒズミにも欠片ほどの罪悪感さえ覚えることなく、それどころかジェノスはヒズミの細い指の隙間に己のそれを殊更きつくねじこんで絡めて、いっそ見せつけるように胸を張って座席の隙間を進んでいく。

「本ッッッ当に恥ずかしい男だな、君は」
「なんとでも言え」
「ろくにボール見ないで闇雲に振りに行くタイプだな」
「見送り三振よりはマシだろう?」
「……どうだろうね」

捨て台詞のように吐き捨てて、ぷいっ、と顔を背けてそっぽを向いてしまったヒズミだったけれど──彼女の手が、ほんの少しだけ力を込めてジェノスの掌を包んだのを、彼の触覚センサーは的確に拾っていた。あまり肉のついていない薄い手から伝わる温もりが、じんわりと擬似神経回路に染み渡る。

なんだか、とても──そう、とてもいい雰囲気だ。
水を差されちゃ、たまったものじゃない。

幸せな気分のまま帰るためにも、これはいよいよ勝ってもらわねばならない。弱小チームだろうがなんだろうが、敗北は許されない。空気を壊すな。ムードを守れ。絶対的な布陣を敷いて、命を賭して勝利しろ。

そのためには、まあ、不本意だけれど──ヒズミと一緒になって、メガホン鳴らして応援してやってもいい。

そんな上から目線の思惑を頭の隅に置きながら、ジェノスは有名選手のエース・ナンバーを背に、彼なりの激闘に備えていた。火蓋は切って落とされたのだ。もう後には引けない。構えたバットを振るしかないのだ。中途半端なヒットは求めていない。キャッチャーフライなんて言語同断だ。目も当てられない。

白球よ、このまま、どこまでも天高く伸びて──
彼女が待つスタンドへ、思いっきり突き刺され。








(君が思うよりも ずっとずっと強くその手を握れたら)

(少しでいいから僕のもんって君を感じていたくて)
(乱暴だって痛がっても力任せに愛してみたかった)

(夏の容赦ない日差しがボールと重なったら)
(その隙にキスを盗もう)
ときどきはワンサイドのゲームでいいだろう?



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