P R O L O G U E


白ウサギの家の大きな庭園の片隅で、彼女はうずくまって泣いていた。悲しくて、寂しくて、たまらなくて、止めどなく涙が頬を伝っていく。


どうして、ねぇ、どうして?


答えの返ってくることのない問いを繰り返し思い浮かべては、ただ悲しみに身を沈めていく。


そんな時だった。


「メアリ・アン!」


暗い夜を引き裂くようなはずんだ声が彼女の耳に飛び込んできた。顔を上げなくてもわかる。彼女が住み込んでいる家の主人・白ウサギの声だ。主人といっても彼女とそう年は変わらず、主従というよりは幼馴染のように育ってきた。しかし今は大好きな白ウサギの声すらうっとうしく感じられる。背後まで迫ってきた足音に気づきながらも、彼女は足に顔をうずめたままでいた。


「メアリ・アン、どうしたの?」


異変に気付いたのか、少し離れた位置で白ウサギの足音が止まる。微かに嗚咽が漏れて、彼が戸惑っているのが伝わってくる。そうよ、もうそのまま屋敷に戻ってしまえばいいわ。しかしそんな彼女の願いも空しく、心優しい白ウサギは彼女を心配して歩み寄ってきた。


「泣いてるだけじゃ、分からないよ」


そっと頭に触れる暖かい感触に、懐かしさがこみ上げる。ずっと小さいころ、こうやって誰かが頭を撫でてくれた気がする。もっと大きくて、骨ばった手で。優しい面影に心が綻びかける。
ねぇ、あなたなら受け止めてくれるのかな、この寂しさを。もう一人で泣いているのはつらいよ。
そう思って彼女が顔を上げかけたその時、


「それより、早くパーティーの準備をしないと!久しぶりにお父様に会えるんじゃないか!」


続いた言葉に彼女は硬直した。そしてみるみる心を閉ざしていく。


「メアリ・アン?」


空気がより一層沈んだことに気づいたのか、白ウサギが戸惑ったように声をかける。それに対して、彼女は初めて言葉を返した。


「お父様とお母様は、私を招待してくれなかったわ」

「え、どうして?お母様はいるじゃ――」

「私はいらない子なの!だから白ウサギのお家にお手伝いに出されたんだ!」


言いかけた白ウサギの台詞を遮って叫ぶ。一度堰を切って流れ出した言葉は、もう止まれそうになかった。


「そんなことないよ」

「慰めてもらってもうれしくない!」

「そんなんじゃない!」


心配する白ウサギの優しさすら煩わしくて、暴力的に言葉を吐く。


「私がわがままで、お行儀が悪くて、言うことをきかない悪い子だったのがいけないんだ!」

「違うよ!」

「もういい」

「メアリ・アン!」

「もういいから!早くパーティーの準備をしてきたら!?」


キッと睨み付けた白ウサギの顔は傷ついた表情をしていて、すぐに見たことを後悔した。けれど今さら撤回することもできなくて、意地になって顔をそらす。
10秒、20秒、流れる沈黙が痛い。やっぱり謝ろうか、せっかく白ウサギが心配してくれたんだから。これでもし白ウサギにまで嫌われたら……。
胸をよぎった嫌な想像に彼女は唇を震わせる。そんなのは、嫌に決まってる!
やっぱり謝ろう、優しい白ウサギならきっとわかってくれる。悲しいことがあって、少し心の制御ができなかっただけなんだ。そう思って顔を上げようとした瞬間だった。
ザッ、ザッ、と足音が遠のいていく音。サァッと彼女の顔から血が引いていく。とぼとぼと落ち込んだその足音はもちろん白ウサギのもので、彼が諦めて去っていこうとしているのがわかる。
白ウサギを傷つけたまま、謝りもせずに離れてしまったら彼はわたしを嫌いになってしまうかもしれない。先ほどの嫌な想像が現実になる気がして、彼女はさらに涙がこみあがってくるのを感じた。
嫌だよ、そんなの!心の中で大きく叫んだ時だった。


ザッ、と進んでいた足音が止まり、白ウサギがパッとこっちを振り向く気配がする。


そして身構える暇もなく彼女の耳に飛び込んできたのは予想外の言葉だった。


「踊っていただけませんか」


「、え?」


驚きの表情のまま顔を上げると、数歩離れた先で白ウサギが優しい笑みを浮かべて立っていた。


「今夜のパーティー、一緒に踊ってくれる人がいないんだ。僕と来て、踊っていただけませんか」


繰り返された言葉に、彼女の目が見開かれる。


「ほんと、に?」


疑うような言葉にも白ウサギは気を悪くした様子はなく、ただ優しく頷いて見せた。


「行っていいの、わたしも?」


目の前で静かに涙を流しながらも、嬉しさで笑顔を見せたメアリ・アンに白ウサギは安心したように一層笑みを深めた。


「本当だよ。楽しみにしてたじゃないか、お父様に会えるのを」

「ありがとう!」


飛び掛からんばかりの勢いで駆け寄って、満面の笑みを浮かべるメアリ・アン。そんな彼女を愛おしげに見つめながら、白ウサギはあることに気が付いた。肩に着くかつかないかくらいの彼女の髪が、薔薇園の端にうずくまっていたせいか葉っぱが絡まってしまっているのだ。それに軽い笑いを漏らしながらも、彼は左ポケットにいれていた存在を思い出してメアリ・アンを呼んだ。


「メアリ・アン。これを君にあげようと思って」


最初はこれを彼女に渡そうと屋敷中を探し回っていたんだ。そして庭の端っこで、一人小さくなって泣いている彼女を見つけた。


「今日のパーティーに、着けておいでよ」


差し出した手の上には薄いピンクの可愛らしいリボンが乗っていた。先日街に出た時に見つけたものだ。一目で気に入った。きっとメアリ・アンに似合うと思ったのだ。


驚きと喜びと照れの混ざった表情で、メアリ・アンがゆっくりとリボンを受け取る。そして少し不慣れな手つきで髪をすき、リボンを結びつけた。
普段は母親である女中に髪を結ってもらっているせいか、リボンの結び方はぎこちなかったが、やっぱり薄いピンクはメアリ・アンにとてもよく似合っていた。しかし当の本人は落ち着かなさそうに、不安げにこっちを見ている。その様子すら可愛らしくて、白ウサギはそっと微笑みを浮かべた。


「似合ってるよ、メアリ・アン」

「ありがとう」


そういってはにかんだメアリ・アンに今さらながら白ウサギも照れてくる。さぁ、悲しい時間はもう終わりだ。あとは楽しい楽しいパーティーで踊り狂うだけ。


踊っていただけませんか。


その意味を込めて手を差し出すと、メアリ・アンは顔を赤らめ、少しためらいながらも、やがては手を伸ばし――




メアリ・アン!
――話があるんだ



あの日彼女がこの手を取っていれば
あの日私が彼に着いていかなければ

物語は変わっていたかもしれない



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