P R O L O G U E



少年は、目を開けた。


町も、森も、全てが活動を止めて寝静まっている深夜。森の深層にあるこの里も例外ではなく、獰猛な獣達は息を潜めて眠りに着いていた。そんな里の様子を窓から伺いながら、少年は静かに床を抜け出した。
長身で痩躯の背格好。頼りない上弦の月がゆるやかに地上を照らし、その光を受けた少年の薄い金色の髪は、光の粉を纏っているがごとく繊細に輝いていた。
窓から差し込む月明かりだけを頼りに、少年は素早く寝具の下から鞄を引っ張り出して荷物をまとめる。里に連れてこられて以来、ずっと軟禁生活だったため準備できるものは限られていた。だがそれでも時間を掛けて収集した甲斐あって、数日分の野宿に必要な道具や食糧が揃った。長い時間をかけて里の者たちの目を盗んで、なんとかしてくすねられた量だ。不安は残るが、これ以上の猶予はない。

緊張した面持ちで少年はそれを肩に掛け、静かに部屋の扉に近付いていった。息を詰めて、周囲の動向に神経を尖らせる。少なくとも、外に誰かが潜んでいる気配は無い。そう判断して、少年はそっと取っ手に手をかざし扉を開けた。その瞬間、風を切る音と共に何かが目の前に迫り来る。反射的にしゃがみこんでそれを避け、慌てて振り返ると、目的物を失った大きな斧が天井に突き刺さろうとしていたところだった。

「ッ!」

間一髪、少年は斧の柄を天井に触れる一瞬前に掴んだ。安堵の息が漏れる。斧の持ち手の先には細い糸があり、それは扉の上に繋がっていた。内側から扉を開けたら、自動的に斧が襲い掛かるように仕掛けてあったことがわかる。

もし、斧を避け切れなかったら…―

考えるだけでゾッとする。しかも、上手く斧を避けられたとしても、それが天井に突き刺さってしまったら、その音で誰かがやってきてしまう。二重の罠をなんとか回避できたことに胸を撫で下ろしながら、再度気を引き締めた。
ここ数年の里で過ごした日々に、少年はたくさんのことを学んだ。しかしどれも学んだ止まりで実践は初めてといっても過言でない。それも、失敗の許されない、最初で最後のチャンス。これを逃せば、もう希望は無い。

少年は廊下に出ようとした。けれどそこで思いとどまる。奴らは残酷かつ、狡猾だ。開けられた扉から一歩下がり、室外に目を凝らせる。すると、廊下へと続く空間に白い十字が走った。それは一瞬のこと。目を凝らせたまま近づき、十字を作っている細い線に触れると、指先に血が滴った。少年はすぐさまその指先を口に含んだ。

暗闇に走る白い十字、それは狩りの時などに罠としてよく使用される細い糸。その細さは常人や動物達の目では判別ができない程だが、その実、それはナイフよりも鋭どい切応えをもっている。斧で安心して部屋を出ようとしたら、それは容赦なく少年の身を裂いたことだろう。

全く持って油断できない。少年は右手を大きく振りかざし、鋭く尖った爪でその十字の横線を断ち切った。次いで縦線も断ち切ろうとしたが、その上端に鈴がついているのに気がつき、腕を下ろした。奴らはどんな些細な音でも、どんな微小な血臭でも、逃がしはしない。手を伸ばして鈴を揺らさないように摘み、音が鳴る間も待たずにそれを両の指で押しつぶす。今度は無造作に縦線を断ち切ってから、室外に動く気配がないのを確認し、少年はその細い身を廊下の闇に紛れさせた。
すばやく左右を確認した後、小さく息を吸い、つま先に力を込める。そして一瞬空気が唸り、次の瞬間、少年の姿はもうそこにはなかった。


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