「ねぇ、先生。好きなの」

ポロッと先生の手から筆が落ちる。キャンバスには完成間近の綺麗な桜の絵。

「えーと、僕最近ちょっと耳が遠いみたいなんだ。ごめんね、もう1回言ってくれないかな?白沢(しらさわ)さん」

「先生が好き」

「僕ちょっと耳鼻科の予約をしてくるよ!うん、そうしよう!」

ガタッと不自然な格好で立ち上がる先生。床にバラバラと落ちる絵の具にも目が行かないようでアタフタしながら美術準備室に戻っていく。彼は自分が未だに筆とパレットを持っていることを忘れてるんだろうな、と思った。
追いかけることもなく、逃げることもなくただ突っ立って先生を待つ私はまるで置いてけぼりの捨て猫のよう。キャンバスの桜はやっぱり、美しい。

「あのね、白沢さん」

準備室からひょっこりと顔をだす先生。ちょっと困り顔。

「耳鼻科、予約いっぱいらしいんだ」

「はい」

なんていえばいいんだろう。これは要するに聞こえなかったことにしてくれ、という遠まわしな断りなのだろうか。大人なんだからシャッキリ自分で言えよ。そう思いながらも、最後まであがきつづけるわたしはやっぱガキ。

「あの、先生」

「ん?」

「桜、好きなんですか……?」

キャンバスに視線を固定して返事を待つ。背後からクスリと少し大人な笑いがこぼれる。

「あぁ、俺の1番好きな花だよ」

でもやっぱり、期待したことは言ってはくれない。

そんな、高校1年生の春のデキゴト。


* * *



うん、あれは我ながら恥ずかしかったと思う。まさに若気の至りみたいなものだ。あの後、結局どうなったんだろう。そんなことを式中に思っちゃってるわたしは、少し冷めているのかもしれない。

今日は高校最後の日、卒業式。

長ったらしい校長の話が未だに続いていた。中には泣いている子もちらほらいたり。
伏せていた顔を上げて教師列を見てみると、もうこの3年ですっかり見慣れてしまった茶髪頭。教師のクセに、と思うが本人曰く地毛らしい。
ちょっととぼけてて、可愛い人。でもキャンバスに向き合う横顔は、とびっきり格好良い。大人なのに子供っぽい一面も持っていて、優しかったり厳しかったりする人。

そしてこの3年間の、わたしの恋心を独占していた人。

あの日、捨てようと誓った思いはなかなか胸からは消えてくれなくて、ずるずると引っ張ること3年。でもあの頃よりは、わたしもグッと大人になったと思う。初恋をして、焦って告白を漏らしちゃったあの頃とは違う。


式が終わって体育館を出ると、周りでは泣き笑いで抱き合う同級生達。そこに紛れて友達と挨拶を交わしていく。しかしもとより友達は少ないほうだから、すぐにすることがなくなってしまう。

これでここにこうやって登校してくるのも、最後。3年間学び続けてきた校舎を目に焼き付けて、校門へと向かう。そこには遠目でもわかる、1つの人影。

自称地毛だけど、絶対染めてると思われる茶髪の長身。目の奥がツーンとなって、式中は気配を見せなかった涙が目に膜を張る。

「なん、で……」

ふと高1のあのときの最後の台詞を思い出した。

『耳鼻科の予約が空くのって、3年後の卒業式の日らしいんだ』

あの時はとりあえず放心状態で、聞こえてなかった台詞。幼すぎて、逃げてしまったわたしの背中に呟かれた台詞。

「耳鼻科、どうだったんですか?」

「んー、異常なしって言われちゃった」

校門の外と中、門の線を境に向き合う。何も言えずに複雑な顔をするわたしに、先生はあの時と同じようにクスリと笑って、言った。

「あの時、誤魔化しちゃった答え…知りたい?」

「………はい」

「俺は、桜が好きだよ」

あふれ出した涙が止まらない。あぁ、大人になった気でいてもまだまだ子供なのかも。
泣きじゃくるわたしに苦笑して、先生は大きく腕を広げた。

「白沢桜!」

大きな声で呼ばれたフルネームに数人の生徒がこっちに気付く。その後ろから何事かと数人の教師が駆け寄るのが見える。

「覚悟ができたら、飛び込んで来い!」

学校から校門の外へ、先生の生徒から、ただ1人の女へと。

「――…はいっ」

ずっと好きだった、この腕に包まれてみたかった。周りの歓声も耳に入らない。ただわたしの心を占めるのは、先生のことだけ。

抱きとめられたと同時に近付く顔に、無意識に目を閉じて。

ファーストキスは、煙草の味。


煙草の味を
(大人になったアリス)(もうワンダーランドには戻れない)


-end-



提出→Adult Alice様
お題→『大人になったアリス』


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