月光の差し込む窓辺で、本のページを捲る少女がいる。僕の目には、冷たい石壁に囲まれたその部屋が、まるで少女を閉じ込める牢のように映る。
 生成りのシーツがかけられた質素なベッド。傍らには、枯れかけた鈴蘭のいけられた一輪挿し。薬壜。消毒液が注がれた法瑯引きの洗面器。窓辺で少女が腰かける椅子は、椅子というよりは踏み台とでも呼ぶべき粗末さだ。

 こつん。窓を叩くと、少女は夢から目を醒ますような柔らかな仕草で顔を上げた。

「まあ、また来てくれたのね」

 そう言って微笑んだ少女の、痩せこけた白い両頬にえくぼが浮かぶ。読んでいた本に薄茶けた栞を挟むと、少女はぎいぎいと軋む窓を押し開けた。

「こんばんは悪魔さん。夜明けにはまだ遠い時間だけれど、今夜のお仕事はもう終わったの?」

 僕の姿を見つけて弾んだ声を上げるこの少女は、その身を死に至る病に冒されている。かつては美しい絹糸のようだった髪は色褪せ、輝きを放っていた瞳は曇り、薔薇色だった唇は荒れてかさついている。それでも尚、少女は、何処かの障壁画で見た天使だか聖母だかにそっくりだった。

 僕の仕事は、死に向かう者たちの水先案内――要するに、悪魔だとか死神だとか呼ばれるそれだ。誰からも忌み嫌われる黒い髪に紅い瞳、尖った牙、そして背中で蠢く黒い羽を持つ悪魔。
 いつからこんな姿でいるのかはとうに忘れてしまった。目に映る全てが厭わしく鬱陶しく煩わしかった。仕事とは関係無しに、眼前で輝く命の灯を薙ぎ払った事すらある。
 そんな暗闇だった僕の世界が、少女と出会って一変した。理由はわからない。自分が少女の何に惹かれたのか未だにわからないのだ。ただ、酷く憂鬱だった何もかも全てが、少女と出会ってからは違って見えるようになったのだ。僕の姿を捉えても、僕の生業を知っても「怖くなんてない」と微笑み、「声を聞かせて」と窓の向こうから手を差し伸べた少女。窓越しに歌を口遊んでくれた、物語を読み聞かせてくれた少女。

 けれど、少女はあくまでも僕とは違う世界に住んでいる。間違っても僕なんかが触れてはならない存在なのだ。僕は、手を伸ばして触れたくなるのを必死で抑えた。

「ねえ悪魔さん、もしかして、ついにわたしの番がやって来たのかしら…?」

 さざ波のように射し込む青い月光が、呟いた少女の睫毛を揺らす。どくん、と僕の心臓は高く跳ねるように脈打った。

 触れたい。いっそ手を伸ばして触れてみようか。否、今さら禁忌の扉を開ける訳にはいかない――相反する想いがせめぎあう。

「でも、あなたが連れていってくれるなら何処だって怖くないのよ。わたしの優しい悪魔さん」

 そう言って少女が見せた凛とした笑顔に、頭の中の何かがぱちんと音を立てて弾け飛んだ。そろそろと腕を持ち上げ、少女の頬に指先で触れる。そして、ゆっくり顔を寄せ少女の額に唇を触れた。そっと離れると、仄暗い月明かりでさえ見て取れるほど、少女の頬は真っ赤に染まっていた。

「ありがとう悪魔さん。本当はね、あなたに初めて会った時から、ああ、わたしはじきに旅立つんだ…ってわかっていたの。だから何も怖くなかったのよ。むしろ、死の病を忌避して家族でさえも遠ざけたわたしをあなただけが見つけてくれた。たとえそれが単に仕事の為であっても、わたし、本当に嬉しかったの」

 だから、と、少女は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。僕にはその声が、今まで聞いたどんな音楽よりも優しい旋律に思えていた。胸の奥が震える。自分にこんな感情があったなんて。それを、今、知るなんて。きっと神様というのは、僕たち悪魔よりずっと気まぐれで残酷なのだろう。

「だから悪魔さん、次に生まれ変わった時は、わたしたちいつも一緒にいましょうね。わたしはあなたに、あなたの知らない歌をうたったり物語を読んだりしてあげるの。そしてあなたは、わたしの知らない世界をたくさん聞かせるのよ。わたしの知らないことを、たくさん、たくさん教えてちょうだい」
「…ああ。約束しよう」

 低い声で頷くと、夢の中の僕は少女の体をふわりと抱き上げた。紙一枚の重ささえ感じない。

「…悪魔さん、最後にひとつだけお願いがあるの」
「何?」
「あなたの名前を教えて」

 僕は逡巡した後、少女の耳元でちいさく自分の名を囁いた。すると少女は、これまで見た中で一番美しい笑みを僕に寄越して頷いた。

「ありがとう…」

 月光の下、少女は痩せ細り薄くなった瞼を静かに下ろした。僕は少女の名を呼ぶと、最初で最後のキスをその唇に降らせた。




-END-





後天性有翅症の遊月さまより相互記念としていただきました^^


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