寝苦しさに目を覚ますと、目の前には規則的に上下する胸板があった。ぼんやりとしながらも顔を持ち上げると、自分を囲うように腕が置かれているのに気がつく。

あぁ帰ってきたんだ。今日は、帰ってきた。帰ってきてくれたんだ。

瞼がふるえて、ほんのりと目元が熱くなる。それをそのままにして、穏やかな鼓動を刻む彼の胸に頭を寄せた。想定外のことに、眠気はすっかり吹き飛んでしまった。遠慮がちに彼に身体を寄せながら、顔を見上げる。小さく開いた口は安らかな寝息を立てていて、寝顔は何度見てもあどけない。それでも整った顔立ちは崩れなくて、いつもそこで納得する。

彼はとても美しい。彼はとても素敵。彼はとてもイイ男。
だから、彼がいろんな女の子と仲良くなるのも仕方の無いことなの。彼にわたしだけを見てもらうなんて、最初から夢物語だったの。彼の特別がわたしじゃないなんて、わかりきったことなの。



高校時代も彼に思いを寄せる女の子はたくさんいた。わたしもその中のひとりで、こっそりと彼を慕っていた。同じ大学に入学したと知ったときは、嬉しくて本当に涙が出てきた。それから何の偶然か、彼もわたしのことを覚えていて、わたしたちの交流は密やかに始まった。
高校時代は部活に燃えていた彼。でも大学ではその情熱を、今までないがしろにしてきた女の子たちに向けることにしたらしい。そのせいか、彼の周りは少々お下品な噂が絶えなかった。
来るもの拒まず、去るもの逃がさず。少々変わった彼の代名詞は、実に的を射ていた。どんなにたくさんの女の子と繋がっていても、不思議なことに誰も自分から彼の元を去ろうとしなかった。だからといって女の子たちが軽い気持ちだったわけでも無く、みんな必死に彼の寵愛を争っていた。みんながみんな、真剣に彼を愛していた。誰も彼もが、彼の特別をほしがった。

彼の周りの女の子で、彼と関係をもっていない子はいない。それが大学時代の彼に関する常識だった。でもその唯一の例外が、わたしだった。だから、少し、ほんの少し、わたしは調子に乗っていたのかもしれない。彼がわたしと簡単にそういう関係にならないのは、彼の中でわたしが他の女の子たちと違う位置にいるからなのかもしれない、と。
笑えるくらい、周りを見ていなかったわたし。馬鹿だった、わたし。何も知らなかった、わたし。調子に乗った結果が、コレだ。


彼に、ほんの少し期待をのせて告白をしたのは、偶然にも初雪が降った冬の日。わたしの頬が赤かったのは緊張していたからだけれど、彼の鼻が赤かったのは寒さのせい。
好きです。そう言ったわたしに、彼はいつもの笑みを浮かべた。付き合おうか?それに頷いたのは、わたし。彼はただ、いつもの、いつも女の子たちに向けているのと変わらない、笑顔を浮かべていただけ。

付き合ったら、彼はわたしだけのものになるなんて、どうして思うことが出来たのだろう。勘違いも、甚だしい。わたしが彼の彼女だと実感できたのは、最初の1ヶ月だけだった。彼の周りには相変わらず、いわゆる関係のある女の子たちがいた。"来るもの拒まず去るもの逃がさず"も変わらない。
それでも彼を妄信していたわたしは、自分に目隠しをした。彼は少し、人気があるだけ。


だって、マンションの契約が切れたとき、彼は一緒に住むかと聞いてくれた。それに頷いたのはわたしだけれど。
だって、どんなに遊びまわっても彼はわたしの横で眠りにつく。たとえ知らない香水の匂いを漂わせていても。
だって、彼にわたしを好きかと問えば頷いてくれる。彼から言ってくれたことは、一度もないけれど。



ゆっくりと彼の腕から抜け出して、いつものように身体をほぐす。適当に畳んだ、昨日の服を身に着ける。

"付き合って"2年をも大分過ぎた今は、彼が住むかと聞いてくれたこの彼の部屋に、わたしがひとりでいる時間の方がはるかに長い。毎晩違うシャンプーの香りで、だいたいよく使うホテルがいくつあるかわかってしまうくらいになってしまったわたしは、少し病気かもしれない。


彼はきっと気付いていない、この部屋にはもうわたしの私物がないことに。
彼はきっと気付いていない、最近はわたしも夜しかこの部屋にいないことに。
彼はきっと気付いていない、今日でわたしに会うのは三週間ぶりだということに。


そして彼はきっと、知ってすらいないのだろう。今日が2人の、3年目の記念日だなんて。


最後の別れだけは、あやふやじゃなくて、はっきりと直接しておきたくて。新しい住居で生活していても、夜はかならずこっちに来て彼を待っていた。彼が帰ってきたら、彼に会えたら、それで全部終わりにしようって。待って、待って、もう自然消滅でもいいんじゃないか、なんて思って。でも結局は、キリ良く3年目の今日にお別れができた。



最後に見下ろした彼は、どこまでも穏やかな、安心しきった寝顔。


「大好き、愛してる」


聞こえるか、聞こえないか。最後の悪あがき。お願い、目覚めて、わたしを引き止めて。


一瞬、彼の、瞼が、ふるえた。


けれど、



「………大好き、さよなら」


最後まで彼は、わたしを見てくれなかった。わたしの痕跡がなにも無い部屋。いつかは違う誰かが、ここに住むのだろう。


いつしか愛は執着に変わり、信頼は諦めになり。



溜息をついて、彼の上に紙切れを落とす。最後にわたしを、一片残す。




さよなら、だけどしてた
(意味は同じよ、もう会わない)(ふるえる瞼、熱い雫が地に落ちる)


-end-



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お題→『ふるえる瞼』

語り、長し。いつか男目線も、書いてみたい。


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