彼女の言葉はまるでふしぎな呪文のようだった。



「あ、文学少女」

横を歩く友達の声に足を止めれば、その視線の先には一人の女子生徒がいた。特徴のない、ごく普通の子。

「知り合い?」

「え、お前知らねぇの?」

当然のように聞き返されて思わず眉をひそめる。それにそいつはヒッと腰を引く。もう慣れた態度ではあるけれど、なんかムカつく。

「そんな有名人なわけ」

見た目だけで言うなら正直中の中、いわゆる普通ってとこだ。話題の文学少女は、その名通りの図書委員なのか、大量の本を抱えて廊下をよたよたと歩いている。あんなになるくらいなら少しずつ運べばいいのに。

「いやぁ、有名人っつーより……変人?」

友達がそう言った瞬間だった。文学少女が本をぶちまけて、こけた。反射的に手が出そうになる。が、寸でのところで止めた。俺が行ったところでどうしようもねぇよ。
その時、文学少女のもとに2人組の女子が駆け寄っていった。きっと本を拾うのを手伝うんだろう。それに軽く安心したとき、片方の女子が顔を上げた。あ、やばい。

思った瞬間には遅かった。小さな悲鳴を上げて、その女子はそそくさともう一人の女子の手を引いてどこかへ行ってしまう。

「さすが顔面兵器」

「………うっせぇよ」

文学少女は結局は一人ですべてを拾い、それを抱えて去っていった。

「おーい、早く購買行かなきゃメロンパンなくなるぞー」

「あぁ?」

普通に返事したつもりが、思ったよりも低い声がでた。それに相変わらずヒッと情けない悲鳴を上げる友達と肩をならべ、俺は購買へと向かった。

それが俺の一方的な、彼女との邂逅。


* * *



どうも俺はものすごく凶悪なツラをしているらしい。
目が合ったら悲鳴を上げられるし、普通に歩いていても道をあけられる。誤解の無いように言っておくが、俺は別にどこぞの族の頭だとかこの地帯を締めるボスだとか、というよりそもそも不良ですらない。少なくとも中身は善良で一般的な男子高校生だ。目立ちたがり屋でもなく、かと言って地味でもなく。適当に友達と騒ぎたい、ごく平凡なスクールライフを夢見ていた。
けれど残念なことに、俺の外見はそれを許してくれなかった。190近い身長に、ガタイもいい。目つきが悪いことでよく絡まれたりしたが、家が空手道場だから武道にもある程度通じていたのが功を奏して返り討ち。中学校のときに興味本位で金髪にしたら、母親にすら目を合わせてもらえなくなった。もちろんすぐに黒髪に戻した。

数少ない友達に言われる言葉、ナンバーワン。

『最初見たときちびりそうだった』

なんだこれ、悲しすぎる。

そんな俺もだんだんと処世術を覚えていった。
下手に人とは目を合わせない。話しかけるとかもってのほか。授業中は顔を上げてたら教師がビビるから基本寝てる。

だから、今この人気の無い廊下で文学少女を見かけた時も、決して話しかけるつもりはなかった。ただ、その後ろを静かに通り過ぎるつもりだった。

文学少女は窓の外を眺めていた。息がガラスを曇らせるほど顔を寄せ、一心に外を見つめる。

キュッ

甲高い耳障りな音がした。俺の上履きが床を擦った音だ。あ、と思った瞬間には文学少女は振り返っていた。目が合う。え、どうしよう。なぜか焦りだす俺を気にもせず、文学少女はフイと目線を外し窓に戻した。

それになぜか肩の力が抜けた。

彼女の顔には、恐怖が見えなかった。目の逸らし方が、まったく他の奴らと違っていた。そこまで考えてハッと気付いた。なんだ、俺。すっげぇ気にしてたんじゃん。慣れてるとかいっときながら、やっぱ気にしてたんじゃねぇか。

「何見てるの」

気付いたら話しかけていた。この低すぎる声も人には恐怖感を与えるらしい。けれど彼女は震え上がることなく、窓の外を見つめたまま言った。



「しんしん」



シンシン?なんだそりゃ。興味津々?
意味がわからずに首を傾げる俺。彼女がこっちを振り返って、笑みを浮かべる。

思えばこれが、最初の呪文だった。



「雪の音を、聞いてるの」



* * *



彼女曰く、この世の全てに音があるらしい。彼女はそれを聞くのが、好きなんだと。
それがもっとも色づくのが、文学の世界。

さんさん、日差しが降り注ぐ。ひゅうひゅう、風が吹く。ざあざあ、雨が降る。


「つんつん、だね」

そういって彼女はそっと俺の髪に触れた。俺はその尖った毛先が彼女の柔らかい指を傷つけはしないかと、心配した。


放課後の図書室。彼女に会いにそこへ通うのが俺の習慣になっていた。利用者のいない図書室は、彼女の城。夕陽でオレンジに染まる空間に、彼女と並んで座る。

「今日は何読んでるの」

彼女の手から逃れるように、その本を覗き込む。他人に髪を触られたことなんてないから、くすぐったい。

これ、と見せてくれた本を俺が知っているはずも無く。ふーん、と返してそっぽを向いた。薄汚れた茶色のソファに並んで、彼女は本を読み、俺は目を瞑る。眠るわけではない。彼女の隣という居心地の良い空間を、楽しんでいた。



「とんとん」

肩を叩かれる。彼女は時々、自分の行動に擬音語をつける。

「そろそろ帰らなくちゃ」

心地良い時間は過ぎるのが早い。ソファに沈み込む俺を覗き込むように見ていた彼女。その黒髪が肩から落ちて、サラリと前に流れ出る。それを掴んだ俺は、無意識だったのか、そうでなかったのか。

「さらさら」

ボソリともらすと、彼女は小さくはにかんだ。腕に閉じ込めてしまいたくなるほど、可愛かった。


そんな日々が終わりを告げたのは、ちょうど1ヶ月後のことだった。



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