机の下
つんと雨の匂いが鼻腔を擽った。長次は読んでいた本を閉じると、長屋の自室を出て、部屋の前で虫干ししていた本の元へ向かった。
まだ雨は振り出しておらず、本は無事だった。長次は安堵し、急いで、されど丁寧に本を部屋に避難させた。
最後の本をしまうと同時に、ぽつぽつと雨が降り始めた。小降りだった雨はすぐに激しさを増し、うるさいほどに響く雨音は、つい先程まで聞こえていた喧騒を攫っていった。
すっかり濡れてしまった虫干し用の机を片付けようと、部屋から出る。
ふと、机の下辺りに小さな黒い塊が見えた。猫だ。雨宿りでもしているのだろうか。猫は小さく丸まって、煩わしそうに尻尾を揺らしていた。
何故かその猫から目が離せず、長次は雨に打たれるのも構わず立ち尽くしていた。髪から滴る雫も、濡れて肌に吸い付く着物も全く気にならない。
雨音以外の一切の音が遮断され、感覚が徐々になくなっていく気がした。

「長次ー!」

その世界に、割り込む声があった。同時に、感覚が引きずり戻される。
そちらを振り向けば、小平太が縁側から外に出ようとしていた。

「何をしているんだ?」

「猫が」

「猫?猫なんてどこにもいないぞ」

そんな馬鹿なと視線を元戻すが、猫などどこにもいなかった。
どこかに行ってしまったのだろうか。いや、そもそもあれは本当に猫だったのだろうか。一つ確かなことは、

「あそこにいた」

「長次がそう言うのならそうだろうな」

にかっと小平太は笑った。

「ところで、風呂にいかないか?私も長次もすっかり濡れてしまったからな」

「そうしよう」

駆け出した小平太を追い掛け、縁側に上がる。
もう一度振り返っても、そこにはなにもいなかった。
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