膝の上の猫
にゃあん、と誰かを呼ぶような鳴き声が聞こえ、障子に寄りかかっていた紡は読んでいた本から顔を上げた。
庭先を見やると、どこから迷い込んだのか、小さな三毛猫がいた。目が合うと、尻尾を立てて近付いてくる。
この辺りでは見かけない毛色だ。鈴付きの首輪をしているから、最近この近くの家で飼われはじめたのかもしれない。
猫はすぐ近くまでくると、また挨拶するように、みゃあ、と鳴いた。
「どうした?」
鼻先に手を差し出すと、猫はにおいを嗅いで、ぴょんと家の中にまで上がってきた。こら、と窘めるが、聞く気もない様子で当然のように紡の膝の上に乗ってくる。ごろんと仰向けになって本から垂れ下がった栞紐にじゃれつきだし、紡は仕方なく本を閉じて畳の上に置いた。それでも猫は膝から下りず、ぺしぺしと脇腹を叩いてくる。
「なにもだせないぞ」
遠慮など一切ない態度に苦笑して腹を撫でてやると、猫は目を細めてごろごろと喉を鳴らしはじめた。餌がほしいのではなく、ただ甘えたいだけのようだ。
顎の下もくすぐってやると、膝の上で蕩けていく。ずいぶんと可愛がられているようだ。毛並みがいいし、なにより驚くほど人懐こい。ふかふかな腹をまた撫でると、前足でぎゅっと手を捕まれた。
「猫?」
ふいに、上から弾んだ声が降ってきた。振り仰ぐと、ちさきが目を丸くしてこちらを見下ろしている。
ちさきは紡の隣に腰を下ろすと、膝の上に転がる猫に手を伸ばした。
「可愛い。どこから来たの?」
ちさきがそっと頭を撫でると、猫はお返しとばかりにその手を舐めた。ざらざらとした舌の感触に驚いたのか、少し肩が跳ねる。だが、眦はよりいっそう下がっていった。
「美人さんだね。女の子かな?」
「三毛だから、そうなんじゃないか」
「三毛猫って、メスしかいないの?」
「オスもいないわけではないけど、珍しいらしい」
へえ、と相槌を打ちながら、ちさきはまた柔らかな毛並みを堪能するようにゆっくりと撫で回した。構ってくれるなら誰でもいいのか、猫は変わらず気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
それは構わないのだが、時折華奢な手が腿にあたりそうになるのは流石に看過できなかった。
「ちさき」
「なに?」
完全に身を委ねている猫を抱き上げ、ちさきの膝の上に移動させる。だが、猫は不満げな顔をして、 すぐにまた紡の膝の上に戻ってきた。さあ撫でろ、とばかりに、みゃあ、と鳴いて腹を見せてくる。
「そっちの方がいいみたい」
唇を尖らせた顔で見上げられ、紡は目を伏せた。どうして、こうなるのか。
またちさきの手が猫の頭に伸びて、膝頭に触れるか触れないかのところでそろそろと動く。そちらから意識を逸らすために、紡も猫の腹をかき撫でた。
「紡って、動物に懐かれやすいよね」
猫に触れて、拗ねた目元を緩めたちさきがぽつりと呟いた。
「そうか?」
「そうよ。なんか、わかるけど。紡のそばって落ち着くもんね」
最後は猫に同意を求めるように語りかける。それに、にゃあん、と鳴いたのは、たまたまなのか、本当に頷いたのか。ちさきは後者と受け取ったらしく、柔らかに微笑んだ。
その笑みを見ていたら、一瞬頭を過った疑問が口をついてでていた。
「それは、お前も?」
「えっ?」
青い瞳がぽかんと丸くなる。声にならない声がいくつか漏れたかと思うと、みるみるうちに頬が赤くなった。
「べっ、べつに深い意味は――!」
「みゃっ!?」
かっと否定する声に膝の上で猫がびくっと毛を逆立てる。さほど大きな声ではなかったはずだが、急で驚いたようだ。
ちさきもはっとして、ごめんね、ときまりの悪い顔で猫を宥めた。背を撫でられ、次第に猫の身体が弛緩していく。
「なんとなくそう思っただけで、ほんとに深い意味はないから」
目を伏せたまま、念を押すようにちさきは言い直した。その頬はいまだ赤い。
かすかに口角を上げ、紡もまた猫の相手をした。