九時を過ぎた時計の針を眺めて、ちさきは何度目かのため息をついた。
海村の人たちが冬眠から目覚め、ぬくみ雪が降らなくなっても三橋教授と紡の研究は続いていて、今でも紡は海にでてデータを集めている。そのことに不満はない。もうすぐ大学に戻ってしまうのだから、もっと一緒にいたいと思うこともあるが、こちらもこちらで他に予定があるからお互いさまだろう。
けれど、こうも帰りが遅いと心配になる。事前に遅くなるとは言われてはいたが、もうそろそろ帰ってきてもいいのではないだろうか。
なんとはなしに湯呑みの縁を指先でなぞる。
いっそのこと様子を見にいってみようか。
そんな考えが浮かんだ時、玄関の戸が開く音がした。ちさきは弾かれたように立ち上がり、居間の障子を開いた。
「おかえり」
「ただいま」
玄関の鍵を締める紡の後ろ姿を認めて、ちさきはほっと息を吐いた。振り返った紡がそのまま居間に上がってくる。ジャケットを脱いだので、受け取ってハンガーにかけた。
「お腹空いてるでしょ? ご飯、すぐ用意するね。それとも、先にお風呂であったまって――」
尋ねながら振り向くと、至近距離に紡の瞳があった。同時に唇に柔らかなものが触れる。思わず上げてしまった声は吐息ごと彼に呑まれた。
ゆっくりと紡の唇が離れていく。呆然と見上げたその顔は悔しくなるくらい平然としたものだった。
「先に飯にする」
なにごともなかったように答えられるが、こちらはそれどころではない。
赤くなった顔で唇をわななかせた。
「な、なんで……今」
「したくなったから」
しれっと単純明快にもほどがある理由を告げる紡にちさきは口を尖らせた。
「だからって、急にしないでよ。心の準備くらいさせて」
「前にキスしてもいいかって訊いた時は、いちいち訊くなって言ってたろ」
思わぬところから反論されて、ちさきは声を詰まらせた。
確かに、数日前「キスしてもいいか」と訊いてくる紡に「いちいち訊かないで」と言った。
だって、恥ずかしい。今更断ることなんてできないのに、頷いてしまったら、隠しておきたい欲求まで全部ばれてしまいそうで。
急にされても事前に言われても恥ずかしいからやめてほしいだなんて、我が儘にもほどがあることはわかっている。
わかってはいるけれど、紡も少し極端すぎではないだろうか。
「わざわざ訊かなくても、あるでしょ、そういう雰囲気とか」
「雰囲気……」
じっと思案顔で紡はちさきを見つめた。
雰囲気をだす方法でも考えているのだろうか。それとも、まさかこれで雰囲気をだしているつもりなのだろうか。だとすれば、ちょっとずれている。紡らしいといえば、らしいけれど。
思わず苦笑を浮かべそうになったその時、そっと大きな掌で頬を包み込まれた。いつもと違って少し冷えた手に首を竦める。しかし、すぐに互いの体温が馴染んで紡の手もあたたかくなっていった。
親指でくすぐるように頬を撫でられる。ちさき、と低い声で名前を呼ばれる。いつの間にか目の前にまで近付いていた瞳には熱が籠っていて、見ていられなくてぎゅっと目を閉じた。
すると、唇が重ねられた。軽く触れるだけだったが、与えられた熱に浮かされそうになる。
「これならいい?」
唇は離れたが、いまだ吐息がかかりそうな距離で瞳を覗き込まれる。
恥ずかしさで逃げ出したいが、しっかりと腰を抱き締められていて叶わなかった。
「だ、だめ……」
それでも消え入りそうな声で抵抗を試みる。
毎回こんなことをされたら、心臓がもたない。どうして紡は平気な顔でできるのか。そもそも、こんなことどこで覚えてきたのか。
「なら、どうすればいいんだ」
呆れたように問われて、なにも言えなくなってしまう。
どうしてほしいか、なんて自分でもわからなかった。
少しだけ抱き締める腕の力が緩んで、顔が離れていく。近いことには変わりないが、先程よりはましでちさきはほっとした。しかし、次に続けられた言葉にまた息を呑む。
「キス、しない方がいいか?」
「えっ……」
節くれ立った親指が震えた唇をなぞって離れていく。頬を撫でた手が下ろされていく。そのまま身体ごと離れていってしまいそうで、咄嗟に目の前にある紡の服を掴んだ。
その瞬間、紡の口角が上がったのが見えて、ちさきはまた唇を尖らせた。
「意地悪。わかってるくせに」
「全部はわからないから。今ので知りたかったことはわかったけど」
紡の服を掴んだ手を握られて、そっと口付けられる。痛いくらいに胸が高鳴って、さらに強く紡に縋った。
熱い。苦しい。気持ちいい。でも、それ以上に嬉しい。
どうしたって逃げ出したくなるほど恥ずかしいけれど、結局拒めないどころか心の奥底ではこの熱を求めてしまうのだ。
紡は雰囲気とか言われてもよくわからないから、とりあえず予備動作を入れてみただけだと思われる。