愛し子の歌
「ひいじいちゃん、みて」

「なんだ?」

「おふね」

皿洗いをしながら、積み木遊びをする息子の透とそれに付き合う義祖父の勇の声を背中で聞く。
「よくできてる」と勇に褒められ、きゃらきゃらとはしゃぐ息子の声があまりにも可愛らしくて、夫によく似た顔に咲いた笑みまで目に浮かぶようで、つられるようにちさきの頬も緩んだ。

年が年だから一緒に遊ぶというよりそばで見ていてくれるだけだが、透は勇によく懐いており、勇が隣にいるだけでずっと上機嫌だし、うまくできた積み木や絵を褒められると本当に嬉しそうに笑う。
保育園で描いた絵や散歩中に拾った貝殻を真っ先に勇に見せにいくこともよくあって、母親としてはやけてしまう時もあるくらいだ。今のように助かることの方が多いのだけど。

皿洗いを終え、手を拭きながら振り返ると、透がまた新しく積み木を積み上げていた。それを見守る勇の目は優しい。透が勇に懐くのは、きっとその目が好きだからだろう。

勇が透の相手をしてくれているうちに掃除もすませてしまおうと、廊下に上がる。
と、向こうの端にぽつんと水筒が置き去りにされているのが見えた。
思わず、あっ、と声を漏らして近付く。少し大きめの青い水筒はやはり紡のものだった。
今日は紡も休みだが、昼からおふねひきの準備に駆り出されている。家を出る時に暑いからと冷たい麦茶を水筒に入れて渡したのだが、直後に急な電話で色々と頼まれたせいか、忘れていってしまったらしい。

ほんと抜けてるんだから。
しょうがないから届けにいってあげよう。

「おじいちゃん、私これから紡に水筒届けにいくから、もうしばらく透のことお願いしてもいいかな?」

「ああ」

開け放たれた襖から顔を覗かせて頼むと、勇はこちらを一瞥して頷いた。
つられるように透も積み木で遊ぶ手を止めて見上げてくる。

「おでかけ?」

「お父さんに忘れ物届けにいってくるから、透はひいおじいちゃんとお留守番しててね」

「いく」

透が立ち上がり、とてとてと近寄ってくる。
ちさきは腰を屈めて透と視線を合わせ、ちょっと困った顔をした。

「遊びにいくわけじゃないのよ。お父さんに水筒届けにいくだけ」

「おとうさんとこ、いく」

妙に頑固に透は繰り返した。普段は大人しくて聞き分けのいい透にしては珍しい。いったい、どうしたのだろう。
正直、透と一緒だと普通に歩くだけでも時間がかかってしまうから、あまりつれていきたくはない。
でも、いつもは我が儘を言わない子だからこそ、たまの我が儘はできるかぎり叶えてあげたくなってしまう。
自分の甘さに肩を竦めて、ちさきは苦笑した。

「じゃあ、お母さんが準備してる間に積み木片付けてね」

「うん」

素直に頷くと、透は積み木を玩具箱の中に片付けはじめた。
その間にちさきは絆創膏やウェットティッシュなど透のための荷物を入れてあるトートバッグと帽子をとりに二階にいく。途中で喉が乾いたと言い出すかもしれないから、透の水筒にも麦茶を入れておいた。
なんだか紡に水筒を届けにいくついでに透のお散歩をする、いや、透のお散歩のついでに紡に水筒を届けにいくみたいだ。

「おわったよ」

舌足らずな声に振り返ると、透の周りに散らばっていた積み木が綺麗に玩具箱に収められていた。
「よくできました」と頭を撫でてやれば、くすぐったそうに笑う。ちさきは柔らかに目を細めて、その頭に麦わら帽子を被せた。

「今日は暑いから、ちゃんと帽子被っててね」

「うん」

ちさきも帽子を被り、透の手を引いて上がり端までつれていく。自分の靴を履いてから、透が履くのを手伝ってやった。

「おじいちゃん、いってきます」

「いってきます」

「ああ」

勇に声をかけて、透と外に出る。帽子を被っていても夏の太陽は眩しくて、ちさきは目を眇めた。
強い日差しに照らされた地面の熱気を潮風がさらっていく。高い青空には水平線から立ち上る入道雲が聳えていた。

透と手を繋いで坂道を下り、海沿いの道を進んでいく。ゆっくりと歩みを進めるたびに、透の靴がピコピコと鳴った。

「おとうさん、おふね?」

「お船じゃなくて、おふねひきの準備ね。覚えてる? おふねひき。去年も一昨年も一緒に見たんだけど」

十五年前に失敗し一度は断たれたおふねひきは、寒冷化を止めるために再び行ったのをきっかけに、その後も毎年海と地上の人間が総出になって執り行っている。海神様への感謝とあの日起きたことを忘れないように、この先も海と地上が繋がっていられるようにと。
ちさきも子供が生まれるまでは準備を手伝っていたし、生まれてからも準備にはあまり関われなくなったが、おふねひき本番は毎年透をつれて見にいっていた。透は小さいから覚えてないかもしれないけれど。

「おじょし様の人形をお船に乗せて、お歌を歌いながら海を回るの」

「ほーいほい?」

「そう、それ! 覚えてたのね」

思わず声を弾ませると、透は照れ臭そうにはにかんだ。
もしかすると歌自体は保育園で教えてもらったのかもしれないが、透の中にあの光景がちゃんと残っていることが嬉しかった。

「最初から歌えるかな? 海のー里にーは」

「ほーいほい、さざなーみよせてーゆーらゆらー」

「そうそう、上手!」

舌足らずで音も外れているけれど、なによりも愛しい歌声と一緒に歩いていく。
何度か繰り返して、ようやくおふねひきの準備をしている造船所に辿り着いた。
海の人間と地上の人間が行き交うなか、紡の姿を探すが見当たらない。誰かに訊こうと手の空いてそうな人を探してみると、こちらに気付いて近付いてくる人影があった。

「よっ、ちさき。どうした?」

「狭山くん」

狭山は透にも気付くと、ちょっと屈んで「久しぶりだな」と軽く挨拶した。透は「こんにちは」とちさきのスカートを掴んで、ぎここちなく会釈を返す。顔も性格も紡に似ているが、人見知りをするところはちさきに似てしまったのだ。
狭山は苦笑すると、顔を上げてちさきに向き直った。

「紡に用?」

「うん、水筒届けにきたの」

「ふうん……おーい、紡ー! 嫁と子供来てんぞー!」

狭山が振り返って叫ぶと、倉庫の陰から紡が出てきた。それじゃあな、と去っていく狭山と入れ違いで、紡がやってくる。ちさきと透の姿を認めた紡の顔には怪訝そうな色が滲んでいた。

「どうした?」

「はい、これ。家に忘れていったでしょ?」

持ってきた水筒を渡すと、紡はかすかに目を見張った。今まで気付いていなかったらしい。

「悪いな」

「いいよ、透のお散歩にもなったし」

ねー、と同意を求めるが、透はよくわかってなさそうな顔で目を瞬かせるだけだった。それよりも周りが気になるのか、きょろきょろと辺りを見回している。
紡の瞳に微笑ましげな色が浮かんだ。

「見ていくか?」

「うん!」

紡の提案に透は嬉しそうに頷いた。
その顔はとても可愛らしいのだけれど、周りの人たちが忙しなく動いているのを見ると、懸念も湧く。

「いいの? 邪魔にならない?」

「少しくらいなら平気さ」

もう少し持ってて、と水筒をちさきに返し、紡は透を抱き上げた。そのまますたすたと倉庫に向かって歩いていく。仕方なくちさきも紡の背を追いかけた。
迷惑にならないかと心配したが、漁師のおじさんや漁協の青年会の人たちは快活な笑顔で透を歓迎してくれた。透も見知らぬ人に話しかけられてびっくりはしていたが、父親の腕の中だから安心できるのか、ちゃんと挨拶はしていてほっとする。この様子なら、確かに大丈夫そうだ。

「そういえば、さっきこの子、おふねひきの歌を歌ったのよ」

「すごいな。いつの間に覚えたんだ?」

「ほんとにね。透、お父さんにもおふねひきのお歌、歌ってあげて」

お願いすると、透はちょっと気恥ずかしげにおふねひきの歌を口ずさんだ。歌詞は少し間違っていたけれど、ちゃんとワンコーラス歌い上げて、紡はもちろん、近くにいた漁師のおじさんにも「うまいじゃねえか」と褒められる。強く紡にしがみついたのは、嬉しくて照れ臭かったからだろう。

紡について倉庫の中に入ると、木彫りのおじょし様の人形が佇んでいた。おふねひきまであと二週間もあるが、おじょし様はほとんど完成しているようだ。着物を纏い優しげな顔で手を広げていた。あとは嫁入り道具と供物があれば、すぐにでも海神様のもとに嫁げるだろう。

「これがおじょし様」

「おじょじょーま?」

「おじょし様」

「おじょじょじょま」

何度繰り返しても舌が回らなくてうまく「おじょし様」と言えない息子に堪らなくなって、ちさきは紡と顔を見合わせて噴き出してしまった。そのまま二人でくすくすと笑い合う。
透は不思議そうにしていたが、おじょし様と言えば両親が笑ってくれると思ったのか、何度も舌足らずに「おじょじょじょま」と口にした。そのせいでなかなか笑いが収まらなくて、ちゃんと説明しようとした声も少し震えてしまった。

「このおじょし様を船に乗せて、海神様のところにつれていくんだ」

「おじょし様は海神様と結婚するために海に行くんだよ」

「けっこん? じゃあ、しあわせでめでたしめでたし?」

「うん、そう。めでたしめでたし」

海神様とおじょし様の物語がその言葉で締め括られるには、ずいぶんと長い年月がかかってしまったけれど。その辺りの話は長くなるから、また今度家でゆっくりしてあげよう。

「ほら、幸せそうに笑ってるだろ」とおじょし様の顔がよく見えるよう紡が透を抱え直す。
透はおじょし様を見つめると、嬉しそうに微笑んだ。

「よかったね。おめでとう」

人形だから祝福の言葉に返事はないはずだけれど、まるでなにか聞こえたかのように透は満足げな顔をした。
無垢な優しさにあたたかなものが胸に溢れる。どうかこの子には、このまままっすぐ育ってほしい。

その気持ちが伝わったのか、それとも同じ想いを抱いたのか、紡が次に見せたのはおふねひきの旗だった。十年前と変わらず、蝶や花のアップリケで繕われたおじょし様の旗が壁際に立て掛けられている。

「かわいいね」

「そうね、可愛いね」

旗を指差す透に同意する。旗に大きく描かれたおじょし様とファンシーなアップリケはちくはぐだが、それが可愛らしくもあった。

「今年は誰が旗を振るか、もう決まってるの?」

「ああ、晃になった」

「晃くんが?」

思わぬ返答にちさきは目を丸くした。
光が旗を振る役になってから、おふねひきの旗は有志の中学生が振ることになっている。だから、今年十四歳になる晃が振ってもおかしくはないのだが、どうにも小さい頃の印象が抜けないせいか、意外に思ってしまう。もう背もあの頃の光と変わらないと、わかってはいるのだけど。

「そっか、晃くんももうそんなに大きくなったんだね」

「あきらくんがはたふるの?」

「うん。みんなが迷子にならないように一番前で振ってくれるのよ」

「すごいね」

透はじーっと大きな目で旗を見つめた。
いつかこの子もこの旗を振る日がくるのだろうか。まだ三歳の誕生日も迎えていないから、十年以上も先の話になるけれど。
その時、この子はどんな子になっているのだろう。このまま大人しい子に育つのか、反抗期になってしまうのか。正直、今は想像もつかない。
ただ一つ願うことは、どうかその時まで、そしてその先の未来でも、この子が迷わずに進んでいけますように。
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