朝日色の指輪
青い海がきらきらと朝日に輝いている。陽光を揺らめかしながら波は穏やかに浜辺を行ったり来たり。春になったばかりの水の冷たさを踝に感じながら、ちさきと紡は砂浜に足跡を残していく。

「海を見にいかないか?」

と、紡に誘われたのは朝起きてすぐのことだった。
その誘い自体は珍しいものではない。これまでも紡に誘われて、時にはちさきから誘って、浜辺を一緒に歩いたり、岩場に腰かけて海を眺めたり、海中を散策したりといったことは何度もあった。
寝起きは流石に珍しかったけれど、天気がいいから海辺を散歩したくなったのだろうと、普段なら違和感を覚えることはなかったはずだ。けれど、今日の紡の声にはいつもと違った響きがあった。嫌な感じではない。ただ、なにか他に目的があるような気がした。
だから、勇と三人で朝食をとったあと、ちさきは家事もそこそこに紡と海に向かった。

看護師で休みが不規則なちさきと違い世間は平日で、浜にでるまでに通学途中の中学生と何人かすれ違ったが、浜辺には誰もおらず静かだった。
穏やかな波の音と海鳥の声しかしない。もう耳に馴染んだ音だ。ぽつりぽつりと水面に浮かぶ漁船も、海と空が繋がる水平線も、潮の匂いを運ぶ風も。
十一年前、波路中学校が廃校になって美濱中学校に通うようになるまでは地上からの海なんてほとんど見たことなかったのに、いつの間にか当たり前にそこにある景色になっていた。

「海が綺麗だ」

独りごちるような呟きに、ちさきは足を止めた。
紡も立ち止まって海を見つめている。ふっと微笑を浮かべて、ちさきもまた海に目を向けた。

「うん、朝日できらきらしてて綺麗だね」

「ちさきの目と同じだな」

「目?」

きょとんとして紡を見上げると、確かめるように瞳を覗き込まれた。

「前から海みたいだと思ってたけど、やっぱり同じだ」

「そう?」

ふいに胸の内から込み上げてくるものがあって、ちさきははにかむように微笑んだ。
そっと髪を撫でられる。指の節がごつごつとした大きな手はあたたかくて心地よかった。

紡と二人で朝日に輝く海を見ていると、勇が倒れた翌朝の、勇と紡と過ごした日々の大切さに気付いた日の朝日を思い出す。あの日も、こんなふうに海が穏やかに輝いていた。あれからもたくさんの後悔を重ねてきたけれど、忘れたくないと思ったあの輝きは今も胸に刻まれている。これからもきっと忘れない。忘れられるはずがない。
長い間自分の気持ちに蓋をしていたけれど、あの時には、いや、それよりもずっと前からもう紡は大切な人になっていた。大切で、ずっと一緒にいたい人に。
でも、今はそれだけでは足りなくなっていた。


******


ちさきがはじめて紡のことを大切な人だと口に出して言えたのは、汐鹿生の人々が冬眠から目覚めた時だった。
両親と五年ぶりの再会を喜んだあと、両親の目は自然とちさきの隣にいる紡の方に向いた。「彼は……?」と怪訝そうな顔をする両親にちさきははっきりと答えた。

「私の大切な人」

紡との間にはいろんなことがあって、いろんな想いがあって、一言で言い表すにはこの言葉しか思いつかなかった。
かすかに見張った目をそっと細めて紡が頷く。
一方、両親は目を丸くした。流石に言葉が足りなかっただろうか。だが、あのね、と一から説明しようと口を開いた時、母の顔に理解が浮かんだ。

「じゃあ、この人が紡くんなのね」

「どうして……?」

どうして紡のことを知っているのだろう。五年前、まだ冬眠のことも知らなかった頃に地上でできた友達として紡のことを話したことはあったかもしれないが、それだけでわかるものだろうか。
困惑するちさきに母は微笑んだ。

「あなた、眠ってる私たちに話してくれたでしょう。地上に取り残されたことも、紡くんと紡くんのおじいさんに助けられたことも」

「聞こえてたの?」

汐鹿生に入れるようになってから、ちさきは何度も冬眠する両親のもとに訪れて話しかけていた。冬眠できず地上に取り残されたこと、あれから五年経って十九歳になったこと、そして勇と紡と一緒に暮らすようになってからの日々のことを。
聞こえているとは思っていなかった。ただ、もう起きないのではないかと思うほど生気のない両親の寝顔を見ていると不安が溢れて、返事などないと知りながらも声をかけずにはいられなかっただけだ。

「ええ、全部」

でも、ちさきの声は二人に届いていたのだ。なんの意味もないものではなかったのだ。
一度は止まった涙がまた溢れてくる。止めようにも止まらなくてしゃくりを上げると、「まだまだ子供ね」とあやすように優しく抱き締められた。

それから、その日は久しぶりに両親と汐鹿生の家で過ごした。
恐ろしいほどの静けさと冷たさに包まれていた時と違い、両親が目覚めた家は懐かしくてあたたかくて、このまま以前のように汐鹿生で暮らすことになるのだと思った。
地上に残る選択をまったく思い浮かべなかったわけではない。あの家も今では愛しい場所になっている。けれど、勇は入院しているし、紡もそのうち大学に戻ってしまうことを思うと、一人であの家に残る気にはなれなかった。それがどれほど寂しいことか、すでに知っていたから。

紡がいつ帰ってきてもいいように、勇がいつ退院してもいいように、たまに掃除しにいこう。
両親の許しがでるなら、紡が帰ってきた時だけ泊まりにいこう。

そんな考えは、数日後、突然勇の退院が決まった瞬間覆った。勇をあの家に一人にしたくはなかった。
感情的な問題だけではない。退院できたとはいえ、勇はもう年で完全に回復したわけではない。また倒れることもあるかもしれない。その時、そばにいられなかったら、そのせいで手遅れになってしまったら。一度考えはじめると、最悪の想像が頭から離れなくて堪らなくなった。
そして、ちさきはその日のうちに両親に願い出た。また地上で暮らしたい、と。

「ごめんなさい。でも、この五年間、おじいさんには本当によくしてもらって、だから少しでも恩返しがしたい」

この選択は両親への裏切りのような気がした。きっと親不孝なことをしている。
その思うと両親の顔を見られなくて、頭を下げ続けるしかなかった。

「顔を上げなさい」

父の静かな声に、ちさきはそろそろと顔を上げた。
両親は思っていたよりもずっと優しい目をしていた。

「考えは、変わらないだろうね」

「昔から妙に頑固なところがある子だものね」

「お父さん、お母さん……いいの?」

仕方なさそうな顔で二人は頷いた。
ああ、そうだ。両親はこういう人たちだった。五年前のおふねひきの時も、ちさきの意志を尊重して送り出してくれた。

「ありがとう」

目の奥が熱くなって、ちさきは堪えるように微笑んだ。

「そのうちこうなるだろうとは思っていたしね。それが少しはやまっただけよ」

「どうして?」

母の言葉にちさきは首を傾げた。
ちさき自身も海村の人たちが冬眠から目覚めたら汐鹿生に帰るものだとずっと思っていたのに、何故母にはこうなることがわかっていたのだろう。

「だって、そのうち紡くんと結婚するでしょ?」

「けっ!?」

あっけからんと突拍子もないことを言われて、声が引っくり返った。父も同じ気持ちなのか、目を見開いて固まっている。

「紡くんと付き合ってるんでしょ?」

「つ、付き合ってるけど、そうなったのはついこの間だし、そもそもまだ学生だし……」

ずっと見ないふりをしていた自分の気持ちを受け入れられたのが数日前なのだ。恋人という関係にすらまだ慣れていないのに、結婚なんて考えられない。
だが、慌てて否定の言葉を並べながら、本当にそうだろうか、と妙に冷静に考える自分がいた。

紡と暮らした五年間は確かに幸せで、あの日々がずっと続いてほしいと思ったことは――紡への気持ちを認められなかった頃は否定しようとしていたけれど――何度もある。わずかとはいえ、勇の退院が決まる前から地上に残りたい気持ちがあったのもそのせいだ。あの日々を終わりにしたくはなかった。
ずっと一緒にいたい。家族でありたい。そんな願いは、いつか結婚という未来に繋がっていくのかもしれない。
そう考えはじめると、母の言葉がすとんと胸に落ちて、少し現実感のあるものになった。

「その……いつかは、とは思うけど」

自分の気持ちを素直に口にすると、顔が熱くなった。
母がおかしそうに声を立てて笑う。恥ずかしくて俯いていると、ふいに笑い声がやんで、子供を諭すような穏やかな声が降ってきた。

「ちさきの好きになさい。あなたはもう子供じゃないんだから」

「お母さん……」

柔らかに目を細めた母は、どこか寂しそうに見えた。
いったい、どんな気持ちでいるのだろう。急に五年も成長した娘を見て。

「たまに、顔見せに帰ってきてもいい?」

「当たり前でしょう。ここはあなたの家なんだから」

「そ、そうだ。帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきなさい」

ようやく我に返って大きく頷く父に、母が小さく噴き出した。つられてちさきもくすくすと笑う。

これからは、いつでもここに帰ってこられるのだ。帰ってきてもいいのだ。
それは、なんて幸せなことだろうか。


******


「私、これからもおじいちゃんと一緒にこの家で暮らしたいんだけど、だめかな?」

退院して家に帰ってきた勇に、ちさきはさっそく切り出した。
勇はかすかに目を見開いた。

「そっちの親は?」

「二人とも許してくれた」

「なら、好きにするといい」

そっけないようにも聞こえる言い方だったけれど、不思議と受け入れられているように感じられた。
迷惑ではないのだとわかってほっとする。知らず知らずのうちに固くなっていた肩から力が抜けていった。

「うん、好きにするね」

確かな意志を持って、ちさきは頷いた。
選んで悔いたことも、選ばずに悔やんだことも多くあるけれど、今は自分の選択が誇らしかった。

視線を感じて隣を見ると、紡が目を細めてちさきを見つめていた。
自分の気持ちに素直になって、きちんと紡と向き合えたからだろうか。言葉を交わさなくても伝わるものがあって、くすぐったそうにちさきは微笑んだ。

そうして数秒見つめ合って、ふと、紡との関係を勇に話していないことを思い出した。おふねひきからいろんなことがありすぎて、今日まで勇とゆっくり話す時間がなかなかとれなかったのだ。
普通なら、わざわざ保護者に伝えるようなことでもないのかもしれない。でも、勇に隠れて付き合うような真似はしたくなかった。

「あのね、おじいちゃん……」

けれど、いざ話そうとすると、どう言えばいいのかわからなくなった。なんだが妙に面映ゆくて、うまく言葉がでてこない。
しばらく口をもごもごさせていると、紡がなにか察した顔をして、勇に向き直った。

「少し前から、ちさきと付き合ってる」

端的に告げられた事実にちさきは顔を赤くした。真正面から勇の顔を見ることができず、目を伏せて「……はい」と頷く。
勇は眉一つ動かさず、「そうか」と返すだけだった。母のようにあれこれ訊いてくることはおろか、驚いた様子すらない。

もしかすると、すでにわかっていたかもしれない。勇も紡に似て――というより、紡が勇に似て――聡い人だ。紡とちさきの間にあったことに気付いていても不思議ではない。きっと、ずっと前から気付いていたのだろう。気付いていて、なにも言わずに見守ってくれていたのだろう。
ずっと隠していたつもりだったから、全部悟られていたかと思うとひどくきまりが悪いけれど、同時にあたたかなものが胸に沁み渡っていく。自分はこんなにも誰かに守られていたのだ。


******


後日、勇のもとに両親が改めて挨拶に訪れた。
どこか畏まった雰囲気の両親を埠頭で出迎え、木原家まで案内する。玄関をくぐったところで両親が目を留めたのは、甕に生けた花だった。

「これは、ちさきが?」

「うん。隣のおばさんがよくわけてくれて」

「そう、本当にここもあなたの家なのね」

切なげに両親は目を細めた。
それにどんな言葉を返していいかわからないまま、居間に上がってもらう。茶をだしながら、自分の親をもてなす側にまわっていることに奇妙な感覚を覚えた。

囲炉裏を挟んで向かい合い、これまでの感謝とこれからのことを頼む両親に勇が短く言葉を返していく。いつも通り勇の態度はぶっきらぼうにも見えるものだったけれど、そこに滲む優しさが感じられるからだろう、雰囲気は悪くなく、だんだん両親も安心したようだった。
勇と両親の会話は和やかに進んでいく。
けれど、父の目が紡に向いた瞬間、風向きが変わった。

「紡くんはちさきと付き合っているそうだね」

「はい」

厳しい目をした父に、紡が落ち着いた様子で首肯した。
父は突然なにを言い出すのだろう。困惑して母を見やるが、母はこうなることがわかっていたかのような苦笑を浮かべるだけだった。

「真剣、なんだろうね?」

「いい加減な気持ちで付き合ってはいません。まだ学生の身なので今すぐにとはいきませんが、いずれは結婚したいと思っています」

当然のことのように答えた紡にちさきは目を剥いた。父が複雑そうな顔でなにか――わかったとかなんとか――言っているが、頭に入ってこない。
顔が熱くなっていく。膝の上で握った拳が震える。ふつふつと腹の奥底から沸き上がってくるこれは怒りだった。
紡がそこまで将来のことを考えていたなんて聞いてない。なのに、いきなり両親に告げるなんて。
俯き隠した唇をきゅっと引き結ぶ。両親と勇がいなければ、堪えきれず叫び出していただろう。

その場はなんとか抑え、平静を装えた。だが、怒りがなくなったわけではない。
両親が帰り、二階の紡の部屋で二人きりになった瞬間、ちさきは紡に詰め寄った。

「さっきの、聞いてないんだけど」

なるべく落ち着いて話そうとしたが、自然と声が低くなった。
なのに、「さっき?」とまったく身に覚えがなさそうに目を瞬かせる紡にさらにむっとする。悟られたくないことはすぐに気付くくせに、どうしてこういう時は察しが悪いのか。

「だから、その……結婚がどうとか」

「してくれないのか?」

「そういう問題じゃなくて!」

なんでこう斜め上なのか。紡のそういうところにもずいぶんと慣れたが、今回は許容できそうにない。

「段階ってものがあるでしょ! 紡はいっつもそう! 相談もなしに一人で勝手に決めて!」

おじいちゃんの前で勝手に進路の話をするし、なのに自分の進路のことは全然話してくれないし。
切れた堰から過去の不満まで溢れてくる。あの時も、あの時も、大事なことを一人で決めないでほしかった。話してほしかった。

「……ちゃんと言ってよ、二人の問題なんだから」

ゆっくりと紡が目を見張った。やっとわかったのだろうか。きまり悪そうに眉の辺りが歪んだ。

「悪い、告白した時にはもうそのつもりだった」

「紡は言葉が足りなさすぎ」

ちさきは唇を尖らせて睨んだ。紡はそれを静かに受け止めた。
躊躇いがちにそっと手を握られる。まだ怒ってはいたけれど、振り払う気にはなれなかった。ちさきよりも少し高い体温が、触れ合ったところから沁み込んでくる。

「俺はこの先もずっとお前と一緒にいたい。だから、その時になったら、ちゃんとする」

順番は間違ったままだし、断られるとはまったく思ってなさそうな態度も悔しい。
でも、あたたかな手に、耳に馴染む低い声に、まっすぐな眼差しに、波立っていた心が静まっていく。静まってしまえば、あとはもう紡から与えられるものに満たされていくだけ。
紡はずるい。
怒りではない感情が浮かんでしまった顔を隠すように、紡の広い肩にそっと額を押しあてた。

「待ってる」

聞こえるか聞こえないかくらいの小さな返事をした瞬間、あたたかな腕が背中に回された。
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