娘のおねだり
「ただいま」

「おかえり」

「おかえりー」

仕事から帰った紡を出迎えてくれたのは、我が子の透と海咲だった。透はもう八歳になるから落ち着いた反応だが、海咲の方はいつものようにはしゃいで紡の腰に飛び付いてくる。頭を撫でてやると、益々嬉しそうにしがみついてきた。まだ三歳のこの子は誰に似たのか素直で甘えん坊だ。
そのまま、つい目を細めて甘えさせていると、台所の方からちさきが顔を覗かせた。

「紡、おかえり」

「ただいま」

「ご飯、すぐできるから。海咲、それじゃお父さん家に上がれないから、ちょっと離してあげてね」

「はーい」

素直に返事をして離れた海咲を認め、ちさきはまた台所に戻っていった。
いつもと変わらぬ日常に心が落ち着く。妻と子供たちにおかえりと出迎えられるだけで、一日の疲れが癒えていくような気がした。

靴を脱いで居間に上がると、また海咲がくっついてくる。畳の上に腰を下ろすと、今度は「だっこー」と膝の上に乗ってきた。何故か今日はいつも以上に甘えん坊だ。どうした、と背を撫でてあやすと、きゃらきゃらとおかしそうに笑ってしがみついてくる。そして、頬に柔らかなものがあたった。
すぐに離れていった感触に紡は目を丸くする。頬にキスなどしたこともさせたこともなかったはずだが、海咲の満足げな笑みを見るに、偶然ではなさそうだ。

「どうしたんだ?」

「しらないの? あのね、すきなひとにはちゅーするんだよ」

得意げに答える海咲に紡は片眉を上げた。

「誰が言ってたんだ?」

「おばあちゃん」

「今日、シシオのおばあちゃんちで海外のドラマ見て、教えてもらったらしいよ」

「そういうことか」

隣で図鑑を読んでいた透が説明してくれたおかげで、ようやく合点がいった。
保育園が休みの日に二人とも仕事がある時は、汐鹿生に住むちさきの両親に子供を預かってもらっている。その時に見た海外ドラマにそういったシーンがあって、なにをしているのか疑問に思った海咲に、好きな人にすることだとちさきの母親が教えてくれたのだろう。

「これは、友達にはするなよ」

「なんで?」

「家族にしかしないものだから」

「おとうさんと、おかあさんと、おにいちゃんと、おじいちゃんと、おばあちゃん?」

「そうだ」

「わかったー」

口ではなく頬だから、あくまで海外では挨拶レベルのシーンだったのだろうが、流石に誰彼構わずやりはじめると困るので注意はしておく。
それでも家族にはしていいとしてしまう辺り、紡も娘に甘い。だが、それも仕方のないことだろう。自分の子供、それも妻によく似た娘にこんなことをされれば、たいがいのことは許してしまいたくなる。

「おとうさん、みさきすき?」

「ああ、好きだよ」

「じゃあ、ちゅーして」

「わかった」

可愛らしいおねだりに頷き、ふっくらとした頬にキスをする。すると、えへへと花が咲くように微笑まれて、つられるように口元が緩んだ。

「またデレデレしちゃって」

からかうような声に顔を上げると、ちさきが苦笑を浮かべていた。どうやら夕飯ができあがったらしい。茶碗をのせた盆を左腕に持っていた。

「そんなにわかりやすい顔してたか?」

「すっごく。私もさっきされたらから、気持ちはわかるけどね」

くすくすとおかしそうに笑いながら茶碗を豆ちゃぶ台に並べると、ちさきは透に「運ぶの手伝って」と頼んだ。うん、と図鑑を閉じて、透が台所に戻るちさきのあとについていく。
その様子をなんとはなしに眺めていると、ねーねー、と海咲に袖を引っ張られた。

「おとうさん、おかあさんすき?」

「好きだよ」

「じゃあ、ちゅーして」

「わかった」

「えっ!?」

海咲を下ろして腰を浮かすと、今度はおかずを盆にのせて持ってきたちさきが声を裏返らせた。
みるみるうちに、その頬が赤く染まっていく。ちさき、と一歩近付くと、逃げるように身を引かれた。
夫婦なのだから頬にキス以上のことも普段からしているというのに、意外にも初々しい反応を返されて込み上げてくるものがある。こんな顔を見るのは何年ぶりだろう。紡はもう一歩距離を詰めた。

「今さら照れることか?」

「だって、子供の前だし……」

これ以上下がると土間に落ちかねないからか、ちさきは紡の脇を抜けて豆ちゃぶ台におかずを並べはじめた。狼狽えているらしく、手が少し震えている。その隣に膝をつくと、ちさきの肩がびくりと跳ねた。

「させたがってるのは海咲だけど」

「それでも、子供の前はだめ!」

「おかあさん、おとうさんきらい?」

強めの口調に驚いたのか、海咲の瞳に涙が浮かぶ。今にも泣き出しそうに顔が歪んで、ちさきは慌てて海咲を抱き寄せた。

「ちがうのよ。そんなことあるわけないでしょ」

「おとうさんすき?」

「うん、大好きよ」

「じゃあ、ちゅーして」

再び同じお願いをされ、ちさきは固まった。困り果てた顔のまま、助けを求めるように目配せしてくる。
それに応えて口を開いたのは、紡ではなく透だった。

「おれたち、しばらくどっかいってようか?」

「変な気を遣わなくていいから!」

だが、それは斜め上なもので、さらにちさきの顔を赤くさせた。
「そう?」と首を傾げて、透は配膳を続ける。しっかり者だが、マイペースな子であった。

その間も海咲は「ねーねー、ちゅーして」とねだり続けている。こうなった海咲は頑固だ。普段はあまり駄々を捏ねないのに、一度捏ねはじめると簡単には諦めない。

「キスしないと、海咲は納得しないんじゃないか?」

「なんか、楽しんでない?」

「否定はしない」

もう、と睨み上げられるが、顔を寄せても今度は逃げられなかった。ちさきも観念したらしい。
赤く染まった頬にそっと口付ける。すると、海咲が嬉しそうに声を立てて笑い、ちさきは恥ずかしそうに目を伏せた。
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