いつか後悔するとしても
その夜、ちさきは寝付けなかった。身体は疲れて泥のように眠りたいのに、布団の中で目を瞑ってじっとしていても頭だけが妙に冴えて微睡みさえ訪れない。
そうしていると、昨日からの出来事が何度も頭を過っていった。血を吐いて倒れた勇の姿、後悔と不安に圧し潰されそうな長い夜、入院に必要なものを届けに再び病院を訪れた時に見た静かで活力のない勇の寝顔。
あの長い一日の中で、よかったと思えた瞬間も、大事に胸に抱いておきたい輝きも確かにあったはずなのに、暗闇のせいか、凍えた静寂のせいか、思い出すのは恐怖を駆り立てる光景ばかりだった。
悪い方へ、悪い方へ、思考が転がり落ちていく。
考えるだけでも恐ろしいことを考えてしまう。

逃げるようにちさきは起き上がった。このままでは余計なことばかり考えてしまう。とにかく気を紛らわせたかった。
そっと障子を開けて、廊下に出る。隣の部屋に灯りはついていなかった。紡はもう寝ているのだろうか。
夜闇に覆われた廊下はぞっとするほど静かで、一人取り残されたような心細さに両腕で自分自身を抱き締めた。

なるべく足音を立てないように階段を降りる。茶でも淹れようと土間に出て台所に向かうと、玄関に繋がる戸から灯りが漏れていた。
消し忘れていたのだろうか。眉を顰めて戸を開ける。
と、玄関の戸を開け放って外を眺める紡の背がそこにあった。
空に浮かぶ月を見ているのか、海に映る月を見ているのか、はたまた見るともなしに夜闇を眺めているだけなのか。ここからではわからないが、どうしてか、その背中がひどく寂しく思えた。

「紡……」

名前を呼ぶと、紡はかすかに目を張って振り返った。

「眠れないのか?」

先手を打たれて、言葉に詰まる。きまりが悪くて目を逸らすが、そんなものは肯定と同じだった。じっと見つめてくる瞳に観念して、ちさきはため息をつく。

「……お茶でも飲もうかと思って。紡も飲む? 外、冷えるでしょ」

「ああ、貰う」

紡は頷くと、玄関の戸を閉めて中に戻ってきた。
台所の照明をつけ、やかんに水を注いで火にかける。茶葉や湯呑を用意して沸騰するのを待つ間、ちさきも紡もなにも話さなかった。もともと紡は寡黙な方だから、こうした沈黙も珍しくはないが、今回は二人ともなにか言葉を探っている気配があった。

紡の胸の内に蟠っているものは、きっとちさきと同じだ。当たり前だ。紡にとって勇は実の祖父で、親元を離れた今となっては唯一と言っていいかもしれない家族だ。そんな勇が倒れて、なにも感じないはずがない。
それなのに、昨日の自分は泣いてばかりでなにもできなかった。救急車を呼んでくれたのも、慰め支えてくれたのも紡だった。紡だって不安で、支えを必要としていたはずなのに。

(ほんとだめだな、私……)

他人だなんて突き放しておきながら、肝心な時には甘えてばかりで、こんな簡単なことにも今の今まで気付かなかった。いつもそうだ。誰も傷付けたくなんてないのに、間違えては後悔ばかり繰り返している。
変わってほしくないものは止めようもなく変わっていってしまうのに、変わってほしいところだけはいつまで経っても変わらない。こんな自分が本当に嫌になる。

自己嫌悪に陥っていると、やかんが笛のような音で沸騰を知らせた。
はっとして火を止め、急須で茶を淹れる。二つの湯呑に注ぎ、片方は上がり端に腰かけた紡に手渡してちさきも隣に腰を下ろした。
熱い茶に温められた湯呑を両手で握る。恐る恐る、ちさきは紡の横顔を見上げた。

「あの……昨日はごめんなさい」

「なにが?」

首を傾げて見返してきた紡は、本当に覚えがなさそうな顔をしていた。

「おじいちゃんが倒れた時、取り乱しちゃって。紡だって、つらかったのに」

謝りながら、顔が俯いていく。情けなくて、申し訳なくて、紡の目を見続けることができなかった。
けれど、頭上から降ってきたのは優しい声だった。

「俺は、嬉しかったよ」

「えっ?」

思わぬ言葉に弾かれたように顔を上げる。
見上げた紡の顔には、本当に嬉しそうな微笑が浮かんでいた。それは、今朝、看護師になりたいと告げた時に向けられたものと同じだった。

「お前がじいさんのために泣いてくれて、嬉しかった」

「そんなの当たり前でしょ! おじいちゃんは私にとっても大切な……家族みたいなものなんだから」

「そうか」

“家族みたいなもの”という言葉に紡の笑みが益々深くなった。
胸の奥底にあたたかなものと、少しの罪悪感が湧いてくる。思い出すのは、一昨日の夜の怒った紡の瞳。
迷惑にならないようにと気遣ったつもりで、“他人”なんて言葉で壁をつくって傷付けてしまった。二人はずっと、そばで手を差し伸べ続けてくれていたのに。なんて、愚かで独りよがりだったのだろう。
でも、取り返しのつかないことではないのかもしれない。紡の笑みが、そう信じさせてくれる。まだ失ってはいないのだから。これまで積み重ねてきたものも、これから積み重ねていけるものも、まだここにある。

「明日、一緒に学校に行かない?」

ふと思いついて誘うと、紡が目を見張った。
当然の反応だろう。紡との関係を邪推されることを嫌って登下校を別にしはじめたのも、学校内では距離を置いていたのもちさきの方だ。

「いいのか?」

「うん、もういい。今までごめんね」

「もうしないなら、いい」

気にしてない、とはけして言わない辺り、そうとう気に病ませていたらしい。思い返してみると、学校内だけとはいえ、あからさまに紡を避けていたのは我ながら感じが悪かった。いくら噂されたくないからといって、あれはやりすぎだ。
自嘲で唇の端が歪む。けれど、次の言葉を口にした時に浮かんでいたのは、きっとそれだけではなかった。

「約束する。もう絶対にしない」

なにかが変わっていく。自らの手で変えてしまう。変わりたくないと、今でも強く願っているくせに、どうしようもなく矛盾している。
その矛盾の果てに、いつかこの選択を後悔する日がくるかもしれない。
それでも、今はこの瞬間を大切にしたかった。
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