雨に溺れる
海神の怒りが具現されたかのような、あのおふねひきの異変から二年。
寒冷化は少しずつ進み、今年は夏になってもさほど気温が上がらなかった。太陽は眩しく照っているのに暑さを感じない。潮風にあたると肌寒ささえ覚える。漁にでてすぐに、紡は家を出る時にちさきに持たされた薄手のパーカーを羽織った。
船の上から眺めた海は、海の人間たちとともに眠ったかのように凪いでいる。海の傍で暮らすようになってからは毎日聞いていた波の音も消え去り、しんと静まり返っていた。

と、視界の端で音を立てて飛沫が上がった。海面近くに魚でもいるのだろうか。目を凝らすと、海の中に細長い銀色が見えた。鬣のような紅い鰭を靡かせながら、大きな魚が龍のように泳いでいる。思わず紡は船から身を乗り出して、その魚を凝視した。
やはり、リュウグウノツカイだ。本来は深海に棲息していて、人の目に触れるような場所にはほとんど現れない。紡も実物を目にしたのはこれがはじめてだった。

「リュウグウノツカイか」

煙草の煙とともに勇が零す。物珍しさに目を輝かせた紡と違い、あまり歓迎していなさそうな声音だった。
科学的には否定されているが、リュウグウノツカイは天変地異、とくに地震の前兆として畏怖されている。勇の態度も、恐らくそのせいだろう。確かに銀の龍のような姿は異様で、良しにしろ悪しにしろ、なにかの予兆のように感じられる。
しかし、当然リュウグウツカイはなにを語ることもなく、ゆったりと橋脚の方に向かって泳ぎ去っていった。

港の周りがやけに騒がしいことに気付いたのは、漁を終えて帰る途中だった。それだけならリュウグウノツカイが現れたからだと考えたが、すでに夕陽に染まった海にでる船がいくつもあって、紡と勇は訝しんだ。
この辺りで夜に漁をすることはほとんどないはずだ。リュウグウノツカイが現れたことよりも異常なことがあったのだろうか。
その理由は、魚を出荷しにいった漁協で知ることができた。

「見ろよ。さっき橋脚のとこに引っかかってたのを見つけたんだ」

漁協に集まっていた漁師の一人が嬉しそうに見せてきたのは、あちこち破れてぼろぼろになった布だった。最初はなにかわからなかったが、広げられたそれに大きく描かれたおじょし様の絵には見覚えがあった。
おふねひきの時に光が振っていた旗だ。

「こいつが流れてきたってことは、光も近くに流れ着いてるんじゃないかと思ってよ。今、みんなで探してんだ」

そうですか、と気のない返事しかできなかった。
もっと喜べよ、と呆れられたが、実感がないのか、すぐにはたいした感情が湧いてこない。ただ、昼間見たリュウグウノツカイの姿が頭に浮かんだ。
この旗はリュウグウノツカイと同じ潮に乗ってやってきたのかもしれない。人の目の届かぬ深海から、今になって。時を止めているように見えて、少しずつ海も変わっている。だとすれば、二年前はどれだけ探しても見つからなかった海の友人たちも、今ならば見つかるのかもしれない。
確証があるわけではない。あくまでただの期待だ。それでも、その可能性を考えはじめると、じわじわと湧き上がってくるものがあった。


******


「ただいま」

「おかえり。ご飯できてるから、すぐ用意するね」

家に帰ると、いつものように台所で夕飯の支度をしていたちさきに出迎えられた。
そうだ。旗のことは、ちさきにも伝えておくべきだろう。たとえわずかでも手がかりになるかもしれないのなら、ちさきも知りたいはずだ。あの日からずっと、彼らの帰りを待ち続けているのだから。
そう思うのに、何故だろう。まだ可能性の話でしかないからだろうか。伝えようとすると、鉛でも飲んだように気が重くなる。どう伝えればいいのかわからないまま土間に落ちた影を見つめていると、ちさきの方から話を振ってきた。

「今日は夕方になってもやけに船が多かったけど、なにかあったの?」

ただの世間話をする軽い調子で尋ねられる。なのに、返す声は硬くなった。

「おふねひきの時に光が振ってた旗が見つかった」

「えっ……」

ちさきの目が大きく見開かれた。

「それで、光も近くに流れ着いてるんじゃないかって、探し――」

言い終える前に、ちさきが駆け出した。咄嗟にその腕を掴んで引き止める。
ちさきは焦燥に駆られたように振り返り、「なんで……」と信じられないものを見るような目を紡に向けた。

「もう、遅いから」

口から出た答えは言い訳に近かった。実際はただの衝動で、自分でも何故引き止めたのかわからない。
ちさきも納得いかないらしく、「でも……」と紡の手を解こうと身を捩る。しかし、離すことはできなかった。離したくなかった。
と、勇が居間から口を出してきた。

「今日はもうやめておけ。夜の海じゃ、見つかるものも見つからんだろう」

青い瞳が物言いたげに勇を見る。しかし、静かながらも強い目で見返されると、唇を引き結び、渋々ながらも頷いて大人しくなった。ようやく紡も手を離す。
それからのちさきはずっとうわの空で、なにを言ってもろくに聞こえていないようだった。

まるで、二年前に戻ったみたいだ。
この家に引き取られたばかりの頃のちさきは、地上にいても心は常に海に置いていた。どんな言葉も響いた様子はなく、ひたすらに海ばかり見ていた。何度も海に潜っては、誰も見つからず、冬眠もできず、一人で泣いて、また潜って。
それでも、地上で暮らすうちに、他のものにも目を向けるようになって、笑うようになって、海に潜ることも少しずつ減っていたはずだった。
だが、そんなものは少しのきっかけさえあれば、揺り戻されてしまうようなものだったのだ。
あの頃のように遠い目をするちさきを見ると、ちりと胸が痛んだ。
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