晴れのち曇りのち
紡のアパートに行くことが決まってから、ずっとそわそわとして落ち着かなかった。指折り数えてその日を待つ間も、都会に向かう電車に乗ってからも。
以前、同じようにアパートを訪ねた時はこんなふうにはならなかったはずなのに、ただ関係が変わったというだけで、胸が高鳴るのを抑えられない。
(浮かれてるのかな……)
ずっと紡への想いはあってはならないもので、これは違うのだと、光以外の人を好きになったりはしないと、自分に言い聞かせてきて、紡と両想いになることを望んだことなんてないはずだった。
でも、紡に告白されて、抱き締められたあの時に、本当はどうしようもなくそれを求めていたのだと思い知らされた。
その時はどうしたって消せない自分の気持ちが苦しかったけれど、心に蓋をする必要がなくなってからは、なんだか夢でも見てるみたいにずっと浮かれっぱなしだ。
はやく会いたい。声が聞きたい。触れたい。
待ち合わせの駅が近付くごとに、期待で胸が甘く疼く。
いつの間にか、ずいぶんと欲張りになってしまった。いや、気付かないようにしていただけで、本当はずっと前からこうだったのかもしれない。
窓の外に目的地の駅名が見えて、ちさきはボストンバッグを肩に掛けなおした。電車が停まって扉が開いたのを確認してから、慣れない人波に呑まれそうになりながらもホームに降りる。一瞬どちらに行けばいいのかわからなかったが、降りた人たちが皆一様に右に向かうのを見て、その人たちについていった。
改札を出て、紡を探す。きょろきょろと首を巡らすと、奥の柱にもたれかかっているのが見えた。
「つむ……」
名前を呼んで駆け寄ろうとしたところで、紡がじっとなにかを見つめていることに気が付いた。
気になって視線の先を見やる。そこには波打ち際で白いスカートを翻す少女のポスターがあった。小さくて華奢で栗鼠のようなくりくりとした目が可愛い女の子が無邪気に笑っている。確か、最近人気のアイドルだ。波七海や鴛大師でも似たようなポスターを見かけた覚えがある。
だから、そのポスターが駅にあること自体はなにも不思議ではない。だが、それを紡が熱心に見ていることが信じられなかった。
海と海洋生物にしか興味がないような顔をしておいて、実はああいう小動物のような女の子がタイプなのだろうか。
あれほど浮き立っていた心がどんどん沈んでいく。もやもやと暗く淀んだものが胸の内に溜まっていって、ちさきはその場に立ち竦んでしまった。
「ちさき」
聞きたかったはずの声が頭上から降ってきて、ちさきははっと顔を上げた。
いつの間にか目の前に紡が立っていた。
「どうした?」
顔を覗き込まれて、どきりと心臓が跳ね上がる。
この気持ちを知られたくなくて、曖昧に微笑んでみせた。
「えっと、ちょっと人酔いしそうになっただけ」
誤魔化されてくれたのか、紡は心配そうに眉を寄せはしたが、それ以上追及してこなかった。
ちさきはこっそりと息を吐く。紡には隠しておきたいことばかり見透かされてしまうけれど、今回はばれずにすみそうだ。
「もう平気だから、はやく行こう」
「じゃあ、荷物貸して」
「そんなに重くないから、大丈夫だよ」
「つらいなら、無理するなよ」
ほら、と手を差し出され、後ろめたくなる。けれど、ここで意固地になったところで紡も譲らないだろう。仕方なく「お願いします」とボストンバッグを預けた。
アパートに向かって歩き出すと、そっと手をとられた。相変わらず紡の手は大きくてあたたかい。じんわりと体温が馴染んで、ちさきの手もあたためられていく。
手だけじゃない。態度もこちらを見る目も以前となにも変わらない。優しくて、確かに大切にしてくれているのを感じる。
なのに、あのポスターの少女が頭から離れない。小さくて華奢で栗鼠のようなくりくりとした目が可愛い女の子。対して自分は、
(どうせ大きいし、団地妻だし……)
紡の気持ちを疑っているわけではない。
なのに、胸の内の靄は消えるどころか、溜まっていくばかりだった。
紡のアパートに着くと、ちさきは持ってきた手土産をバッグから取り出した。これは隣のおばさんから貰った漬物だとか、こっちは母から教わった保存がきくおかずだとか、紡に説明しながら冷蔵庫に仕舞っていく。
紡も家事は問題なくこなせるから必要ないかもしれないが、なにかに夢中になると食事を忘れることをよく知っているから、つい用意してしまった。冷蔵庫の中は空っぽとまではいかないが、あまり入っていなかったからちょうどよかったかもしれない。
「一応日持ちはするけど、はやめに食べてね」
「ああ、助かる」
冷蔵庫に仕舞っている間に、紡は茶を淹れてくれていた。ありがとう、と礼を言って、ソファに並んで座る。熱い緑茶を飲むと、身体の内側にゆっくりと沁み渡っていった。
どうせなら、一緒に暗い靄も流し去ってくれたらいいのに。まだあの少女の姿がちらついて、余計なことを考えてしまう。
やっぱり紡もああいう小さくて可愛い女の子が好きなのだろうか。
だとすれば、紡の好みのタイプから外れている自分はどう思われているのだろうか。
どうして、こんなにもやもやもやするのだろう。たったあれだけのことで卑屈になってしまう自分が嫌になってくる。
その時、ことん、と湯呑みを置く音がした。
「ちさき、やっぱりなにかあっただろ」
はっとして顔を上げる。静かな、けれど確かに憂う色をした瞳がじっとちさきを見つめていた。
思わず息を呑む。なにも言えずにいると、紡の顔がわずかに歪んだ。
「俺には話せないことか?」
その表情に、ずきんと胸が痛んだ。
いったい、なにをしているのだろう。こんなことでもやついて、心配かけて。好みのタイプなんて関係ない。こんなんじゃ、全然だめだ。
せめて心配だけはさせたくなくて、どうにかちさきは首を横に振った。
「そうじゃないの。ただ、その……」
この先を確かめるのは、正直勇気がいることだった。肯定された時が怖い。それでも、なんとか声を絞り出した。
「紡も、やっぱり小さくて可愛い女の子が好きなの?」
「えっ?」
完全に意表を突かれたように、紡は目を丸くした。
「なんで、そう思ったんだ」
「だって、熱心に見てたじゃない。駅で、小さくて可愛いアイドルのポスター」
こちらはその時のことがずっと頭から離れないというのに、紡の方はまったく心当たりがないような顔で目を瞬かせた。
その反応にやつあたりじみた苛立ちが湧いてくる。つい唇を尖らせると、ようやく思い出したらしく、「ああ、あれか」と呟いた。
「ポスターに写ってた海を見てた」
「海?」
「綺麗な色だったから」
思い返してみると、確かにポスターの背景には海が広がっていた。南国のものらしく、故郷の海とは違うエメラルドグリーンで、アイドルがいなくても目を惹くものではあっただろう。
これが紡でなければ、下手な誤魔化しに聞こえたかもしれない。しかし、相手は海と海洋生物にしか興味がないような紡だ。アイドルに興味があったと言われるよりも、ずっと納得できる答えだった。
「そっか」
あんなにも胸の内を覆っていた靄が一瞬で晴れていく。
なんだ。海を見ていただけで、あのアイドルが好きなわけでも、ああいう女の子がタイプなわけでもなかったんだ。
ほっと小さく息を吐く。知らず知らずのうちに強張っていた肩から力が抜けていった。
その時、ふいに節くれ立った手がソファの上に置いていた手に重ねられた。
きょとんとして見上げると、何故か紡が機嫌のよさそうな笑みを浮かべていた。
「やきもちか?」
「なっ、違うわよ!」
反射的に否定したが、図星だった。結局はただのやきもちだ。他の女の子を見てほしくないだけだ。
見透かすようにじっと瞳を覗き込まれて、逃げるように顔を背ける。無駄な抵抗だとわかっているが、素直に認めることなんてできなかった。
「ただ、ちょっと気になっただけ! 紡の好みのタイプなんて知らないし!」
口にしてから、なんの誤魔化しにもなっていないことに気が付いた。紡の好みのタイプを気にして一喜一憂していたのは事実だ。
空回ったあげくに墓穴ばかり掘る自分が情けなくて、余計に紡の顔を見られなくなった。
「ちさき」
「……なに?」
振り向かないまま、返事をする。すると、もう一度「ちさき」と呼ばれた。同じように「なに?」と返事だけすると、また名前を呼ばれる。
「だから、ちさき」
「だから、なにって」
このままだと一生続きそうで、観念して振り返る。
と、熱の籠った瞳がまっすぐにちさきを射貫いた。
「俺が好きなのは、ちさきだ」
急速に沸騰したかのように、かっと顔が熱くなる。あまりの不意打ちに唇がわなないた。
「なっ、急になに!?」
「俺の好みのタイプが気になるって言うから、答えただけだ」
なるほど、と一瞬納得しかけてしまったが、違う。そうじゃない。
「タイプって、そういうことじゃなくて、小さい方が好きとか、髪の長い子が好きとか、そういう……」
「ちさき以外好きになったことないんだから、ちさきが好みのタイプってことになるんじゃないか」
どこまでも真面目に告げられて、息が詰まる。恥ずかしくて、痛いくらいに心臓が早鐘を打つのに、不思議とその感覚が嫌ではなかった。
「仮にちさきそっくりな人間が現れたとしても、ちさきじゃないなら意味ないけど」
本当に、紡は昔から嫌になるくらいまっすぐだ。
誰にも知られたくないことばかり見抜いて、触れてほしくないところまでずかずかと踏み込んできて、意志の強い瞳でまっすぐに見つめて気持ちを伝えてくる。
頑固で強引で無遠慮で、そういうところが苦手だったはずなのに――。
諦めてちさきは大きくため息をつく。そうして色んなものが吐き出されると、最後に残ったのは案外素直な気持ちだった。
「紡はやっぱり紡だね」
紡が不思議そうに瞬いた。
その頬に手を添えて、顔を寄せる。そっと唇を重ねて離すと、大きく見張った目とかち合った。その頬が少し赤く見えるのは、夕陽のせいだけではないといい。
「ありがとう。私も、紡が紡だから好きだよ」
流石に照れくさくなって、ちさきははにかむように微笑んだ。
つられるように、紡も口元に笑みを浮かべる。
「ああ、知ってる」
「もう、ほんと自意識過剰なんだから」
「事実を言っただけだ」
しれっと言い切ったかと思うと、紡は瞳を覗き込むように顔を近付けてきた。ぎゅっと強く手を握り締められる。いつもは安心できる手が、ひどく熱く感じられた。
「お前こそ、もっと知った方がいい」
「なにを?」
「俺がどれだけお前のことを好きなのか」
額にそっと柔らかなものが触れる。目を見開いて固まっている間に、目尻に、頬に移動して、そして、
「まって、もう充分わかっ――」
吐息ごと呑み込むように深く口付けられる。たったそれだけのことで、言いたかったことすべて吹き飛んでしまった。
なんだか気持ちがふわふわする。やっぱり、どうしようもなく浮かれているのかもしれない。
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