いつか流す涙は
五歳になる娘の海咲を保育園に迎えにいくと、何故か機嫌が悪かった。いつもなら繋いだ手をぶんぶんと振りながらその日あったことを楽しそうに報告してくれるのに、今日はむすっと頬を膨らませたままなにも言ってくれない。
まっすぐ家に向かって娘の手を引きながら、ちさきは首を傾げた。

(今日はお迎えの時間に遅れてないし、お弁当も好きな物をいれてあげたし……お友達と喧嘩でもしたのかな?)

おおよそのあたりをつけて「どうしたの?」と尋ねる。すると、海咲はかばっと顔を上げて、今にも泣きそうな声で言った。

「ねえ、おにいちゃんすきなのって、へんじゃないよね!?」

「えっ、うん。なにもおかしくないわよ」

「そうだよね!」

勢いに圧されながらも頷くと、曇っていた顔がぱあっと明るくなった。
保育園でからかわれでもしたのだろうか。

「お兄ちゃん好きなのは変だって、誰かに言われたの?」

「うん。みんな、へんだって」

思い出して、海咲はまた唇を尖らせた。
五歳も離れているおかげか息子の透は海咲の面倒をよく見て可愛がっており、海咲も透のことを――それこそ周りの大人からブラコンと呼ばれるくらい――慕っている。それでも、あかりさんが言うには、この年頃の子はみんな大なり小なり上の子の後ろをついて回るものだそうだから、まさか同じ年の子たちにからかわれるとは思ってもみなかった。

「あのね、みんながね、だれとけっこんしたいかっていってたの」

「うん?」

「さゆりちゃんはじゅんくんとけっこんするっていってて、はるちゃんはしょーせんせいとけっこんしたいって。それでね、わたしはおにいちゃんとけっこんしたいっていったの。そしたら、みんながへんだって。きょうだいはけっこんできないって」

なるほど、そういうこと。
それなら、お友達を責められない。子供ゆえに言葉選びは間違えたかもしれないが、言ってること自体は間違っていないのだから。
さて、どう言えば、この子にも納得してもらえるだろう。

「残念だけど、兄妹で結婚できないのは本当のことよ」

「なんで!? けっこんって、すきなひととずっといっしょにいるためにするんでしょ?」

「うん。でもね、海咲のお兄ちゃんとずっと一緒にいたいって好きと、結婚したいって好きはちょっと違うの」

「おなじすきなのにちがうの?」

「うん、違うの」

海咲は眉を寄せた。腑に落ちないらしく、唸り声が口から漏れる。

「おかあさんも? おかあさんも、おとうさんへのすきと、わたしへのすきはちがうの?」

「そうね。お母さんはお父さんのことも海咲のことも、もちろんお兄ちゃんのことも大好きだけど、海咲やお兄ちゃんへの好きとお父さんへの好きはちょっと違うわね」

「よくわかんない……」

「いつかわかるわよ」

わかりやすく不満な顔をする海咲の頭を諭すように撫でる。
その違いを説明するのは正直難しかった。本当に感覚的なものなのだ。言葉で言い表せるものではない。仮になんとか言葉を尽くして説明したとしても、海咲が納得できる答えにはならないだろう。

「それに、結婚っていうのは家族になることでしょ? お兄ちゃんとはもう家族なんだから、結婚しなくてもずっと一緒にいられるじゃない」

きょとん、と海咲はちさきを見上げた。零れ落ちそうなほど、まんまるに目が見開かれていく。

「ほんとだあ」

ぱあっと満面の笑顔になって、海咲は犬が尻尾を振るみたいにぶんぶんと繋いだ手を振った。
恋がなんなのかもしらないこの子は、将来どんな人を好きになるのだろう。どんな恋をするのだろう。幸せなことばかりではないかもしれない。心が裂かれるような痛みに苦しんだり、悩んだりすることもあるかもしれない。それでも最後は晴れやかに笑っていてほしい。

「ねえ、海咲。この先なにがあっても、お母さんもお父さんもお兄ちゃんも、海咲の家族で、海咲のことが大好きだから。それだけは、絶対に変わらないからね」

「うん!」

ぎゅっと繋いだ小さな手をちさきは優しく握り締めた。


******


入浴を終えて寝室に入ると、紡が横になって海咲の頭を撫でていた。海咲はぐっすりと気持ち良さそうに眠っている。ちさきが風呂に入る前はまだ全然眠くないって顔で紡に絵本を読んでほしいとねだっていたのに。やはり寝かしつけるのは紡の方がうまいようだ。

「よく寝てるね」

起こさないよう声を潜め、そっと枕元に腰を下ろすと、紡が上体を起こした。
紡の手が離れた海咲の頭をそっと撫でる。この年頃の子はまだ髪がふわふわと柔らかくて、触れているこちらの方が気持ちよかった。
海咲はちさき似だとみんな言うけれど、寝顔は紡に似ているように見える。前に紡に言ったら、寝顔もちさき似だと賛同してくれなかったけれど。

「海咲、今日はやけに機嫌がよかったな。なにかあったのか?」

「ああ、今日ね――」

帰り道でのことを話すと、紡は「海咲は本当に透のことが好きだな」と苦笑した。ほんとにね、とちさきも同意する。
頭上でそんなやりとりが行われていることも知らず、海咲はむにゃむにゃと不明瞭な寝言を漏らした。なにを言っているのか聞き取れるものではないはずだが、なんとなく父親を呼んでいるように聞こえる。紡もそうなのか、応えるように海咲の肩を擦った。
その時、ふと、海咲の話を聞いた時は考えもしなかった疑問が浮上した。

「この子、紡とは結婚するって言わないのね」

お兄ちゃん子であると同時に、父親にもべったりなはずなのに。
それに気付くと心底不思議だった。
しかし、紡の方はそうでもないようで、とくに表情を変えることなくちさきの疑問に答えた。

「いや、前は言ってた」

「そうなの?」

「ああ。俺はもうちさきと結婚しているから無理だって言ったら、納得して言わなくなったけど」

「子供相手になに真面目に返してるのよ」

ちさきは呆れてため息をついた。そういう人だとわかってはいたけれど、我が子相手でも変わらないのか。

「その分なら、将来海咲が結婚しても泣かなさそうね」

うちのお父さんみたいに、と言うと、紡はかすかに目を見張って海咲の寝顔を見下ろした。
時間が止まったみたいに黙ったまま海咲を見つめ続ける。その横顔に沈痛なものが浮かんで、紡、と戸惑って呼ぶと、ようやく口を開いた。

「泣くかもしれない」

「紡が!?」

ちさきは目を丸くした。
もう長い付き合いだから紡が泣いたところを見たことがないわけではないが、それでも意外すぎた。
娘の結婚式で泣いているところを想像しようとしてみるが、うまく想像できない。似合わなすぎる。次第にじわじわとおかしくなって、ちさきは小さく噴き出した。

「じゃあ、その時は慰めてあげる」

いつか流すかもしれない涙を拭うように、紡の頬を撫でる。紡は拒まず、むしろちさきの掌に頭を預けてきた。

「いつもと立場が逆だな」

「ふふ、そうね」

いつもいつも泣いて慰められていたのはちさきの方だった。
子供の成長だって、喜ぶべきことなのに、どこか寂しさを感じているのはちさきの方だ。透の乳離れの時はとくに酷くて、見かねた紡に抱き締められた瞬間に涙を溢してしまった。
透も海咲も、どんどん大きくなっていって、少しずつ親を必要としなくなっていく。今は甘えたいさかりで親を頼ってばかりのこの子も、きっといつかは他の誰かを一番に頼って甘えるようになる。ちさき自身がそうだったように。

「やっぱり、私も泣いちゃうかも」

「その時は、二人で泣くか」

「うん」

でも、きっとその時流す涙は幸せなものなのだろう。
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