寄せては返し、いつか満つ
夢中になって本を読んでいる途中で寝入ってしまう、なんてことは、よくあることだった。眠気がきても、あと少しもう少しだけとページを捲る手を止められずにいるうちに意識がなくなり、気付くと朝になっているのだ。
畳の上で目を覚ました紡は視界に入った机の上の本に、今回もそうだったことを思い出した。
意味をなさなくなったテーブルランプを消す。置時計は十時近くを示していた。休日とはいえ、流石に寝過ぎた。

少し意識がはっきりしてくると、やけに身体が怠いことに気が付いた。畳の上で寝てしまったせいだろうか。使うことのなかった布団を片付けなければならないが、億劫になり、後回しにして下に降りた。

洗面所に入って顔を洗う。少しは頭もすっきりするかと思ったが、どうにも覚めてくれない。ただぼんやりと水の冷たさを心地よく感じていると、戸の開く音がして「やっと起きたの?」と呆れたような声が背中にかけられた。水を止めてタオルで顔を拭きながら振り返ると、入り口にちさきが立っていた。

「おはよう」

「おはよう。今日はずいぶんお寝坊さんだね」

髪ぼさぼさだよ、とちさきは苦笑した。

「朝ご飯、すぐ用意するから、ちゃんと……」

ふいに、言葉が途切れた。じっと見つめられて、紡は首を傾げる。

「ちょっとごめん」

ちさきが近付いてきたかと思うと、ひんやりとしたものが額に触れた。冷たくて気持ちいい。だが、それがちさきの手であることに気付いて目を見張る。止めることも引き剥がすこともできずに固まっていると、ちさきがやっぱりと焦ったような声を上げた。

「熱があるじゃない。なんで言ってくれないの?」

「えっ?」

「気付いてなかったの?」

驚かれたが、こっちも驚いていた。寝起きだからか、本当に熱があるせいか、頭がうまく働かない。確かに少し怠いが、そこまで酷い顔をしているのだろうか。

「とにかく、まずはちゃんと体温計で計ってみよう?」

促されるままにちさきにつれられて居間にいくと、勇が無言で体温計を差し出してきた。洗面所での会話が聞こえていたらしい。
大人しく計ってみると、三十八度を越えていた。せいぜい微熱程度だと思っていた紡は目を瞬かせた。

「熱だけか?」

「多分」

勇に尋ねられ、紡は頷いた。
熱と怠さ以外の症状は今のところない。急に寒くなってきたところに布団もかけず寝てしまったせいで、風邪でもひいたのだろう。

「寝てればすぐ治るよ」

部屋に戻ろうと立ち上がる。
と、「一人で大丈夫?」とちさきに心配そうに問われた。

「ただの風邪だから、そんなに心配することない」

「じゃあ、あとでお粥と薬持ってくね」

「頼む」

自覚したせいか、身体は余計に怠さを覚えていた。重い足取りで階段を上り、部屋の障子を開ける。敷いたままだった布団が目に入って、仕舞わなくてよかったと呆れ混じりに考えた。
布団に入り、天井を眺めて大きくため息をつく。
久しぶりにやらかした。完全に自業自得だ。

大人しく目を閉じると、すぐに微睡みがやってきた。葉擦れの音や鳥の囀りを聞くともなしに聞く。完全に眠りに落ちる直前のところでうつらうつらしていると、障子の向こうから遠慮がちな声がした。

「紡。お粥と薬持ってきたけど、入ってもいい?」

「……ああ」

はっと目蓋を持ち上げて、返事をする。ゆっくりと上体を起こすと、ちさきが障子の開けて入ってきた。布団の脇に粥や水をのせた盆を置き、腰を下ろす。

「氷嚢もつくってきたから、よかったら使って」

「ありがとう」

ちさきから氷嚢を受け取り、頭に押しあててみる。冷たくて心地いい。しばらくこのままでいたかったが、それだと食事ができないので一度脇に置いて、いただきます、と粥が入った碗を手に取った。
そっとスプーンで掬って、口に運ぶ。梅干しの入った粥はさっぱりとしていて、さほど食欲がなくても食べやすかった。
すべて平らげて、ごちそうさま、と碗を置くと、ちさきがほっと息を吐いた。

「よかった、食欲はあるんだね」

「うまかったから」

「ただのお粥だよ。はい、薬」

手渡された風邪薬を水で飲んで、コップをちさきに返す。ちさきはコップを盆に置いて、ちょっと腰を浮かせた。

「他に必要なものとか、ある?」

「いや、大丈夫」

「そう? 私もおじいちゃんも家にいるから、なにかあったらすぐ呼んでね」

盆を持って、ちさきが部屋からでていく。離れていく足音を聞きながら、紡はまた横になり、氷嚢を頭にあてて目蓋を閉じた。


******


紡が案外元気そうだったことに安堵して、ちさきはいつものように家事をすませた。
それから、少しはやいが勇と昼食をとる。一応紡にも食べるか訊きにいったが、寝ていたのでそっとしておいた。

「紡はどうだ?」

と、手を合わせてすぐに勇に問われた。ちさきは紡の穏やかな寝顔を思い返して答えた。

「ぐっすり寝てたよ。まだ熱はあるみたいだけど、この分ならすぐによくなりそう」

「そうか」

わずかな変化ながら、勇の声音が柔らかくなった。
表情の変化が乏しいせいで無愛想に見えるが、本当は情の深い人なのだ。寡黙さに慣れてくると、この人の優しさがよくわかる。いつも通りけして賑やかとはいえない食卓だったが、あたたかなものが胸の内に広がっていった。

昼食後、ちさきはサヤマートに買い物にでかけた。夕飯の材料と紡のための冷却シートやスポーツドリンクを籠に入れていく。

(少しでも食欲があるなら、うどんがいいかな。栄養とれるし。風邪にきくのって、ニラや大根だっけ? ネギもよかったかな。あと、ゼリーとかりんごとか……)

ついあれもこれもと籠に入れてから、その重さにはっとする。流石にこれは買いすぎだ。紡だって、こんなには食べきれないだろう。

(ゼリーとりんごはどっちかだけにして、野菜も種類を減らして……)

必要なものを吟味し、それ以外は棚に戻して会計をすませる。レジを打つ店長の顔が笑っていたのは、接客のためだと思いたい。見られていたとしたら、恥ずかしくて居たたまれない。

家に帰ると、勇が作業場で漁網を繕っていた。ただいま、と声をかけると、おかえり、と顔を上げて返される。

「紡は?」

「まだ寝てるようだ」

「そっか。ゆっくり休めてるのかな」

あとで様子を見に行ってみよう。
そろそろ氷嚢もぬるくなっているだろうし。

「りんご買ってきたんだけど、おじいちゃんも食べる?」

「ああ」

「じゃあ、剥いてくるね」

ちさきは玄関の方を通って台所に向かった。買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、りんごを剥く。中心にぎゅっと蜜が詰まっていて、とても甘そうだ。一切れだけ摘まんで、美味しい、とちさきは笑みを浮かべた。
切り分けたりんごを半分ずつ皿にのせて、一皿は「ここに置いておくね」と勇の近くの上がり端に置く。勇は返事をして一瞥はしたが、すぐにまた網に視線を落として手を動かしはじめた。

「今日は風が冷たいから、はやめに家の中に入ってね。おじいちゃんまで風邪ひいちゃったら大変」

ああ、と手を止めずに頷いた勇に「ほんとに気を付けてね」と言い置いて、ちさきは立ち上がった。
盆の上にもう一つの皿とスポーツドリンク、冷却シートをのせて二階に上がる。紡の部屋の前で障子越しに声をかけるが、返事はなかった。勇の言った通り、まだ寝ているようだ。

「紡、入るよ」

そっと障子を開けて中に入る。紡は布団の中で丸まっていた。
変わりなさそうな様子にほっとした時、かすかに呻くような声が聞こえた。
胸騒ぎがして、急いで枕元に腰を下ろす。顔を覗き込んでみると、魘されているみたいに眉を寄せていて、ちさきは息を呑んだ。汗で張り付いた前髪をかき上げて額に手をあてる。朝よりもずっと熱くて、背筋に冷たいものが走った。

(冷やさなきゃ……)

タオルで軽く額の汗を拭いて、冷却シートを貼る。だが、それだけでよくなるはずもない。紡の顔は苦しそうに歪んだままだ。

おふねひきの日のことが去来する。あの日、溺れた紡はこのまま目を覚まさないんじゃないかと思うくらいぐったりとして動かなかった。あの時と今では状況が違うが、同じ嫌な汗が止まらない。
このままもっと悪くなったら、どうしよう。今度は目を覚まさなかったら――。
頭を過った嫌な想像は、下り坂を転がるように悪化していく。それを振り払うことができず、ちさきはその場に座り込んだまま動けなくなった。
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