今はただそれだけで
あの日、数多の想いが籠められたおじょし様は海に沈みゆき、人々の願いは聞き届けられた。あの時、なにが起こったのかはわからない。けれど、一度は荒れ狂った波が静まり、海が輝いたのを見て、すべて無事に終わったことだけは理解した。
うろこ様も、ぬくみ雪はもう地上に降らないだろうと言っていた。だから、冬眠する必要ももうないと。その言葉通り、先に眠っていた海の人たちもすぐに目覚めた。
それから、いつもより涼しい夏が過ぎ、秋、冬、春と季節が巡り、再び暑い夏が訪れるようになっても、ぬくみ雪が地上に降ることは一度もなかった。
世界を大きく変える危機は本当に去ったのだ。

代わりに、人々の営みにはいくつか変化があった。海の人間と地上の人間が手を取り合い、また昔のように総出でおふねひきの準備をするようになったことも、そのうちの一つだ。
そして、他人にとっては些細ながら、子供たちの関係も少しだけ変わっていた。
造船所の窓から空を見上げ、ちさきは今頃守鏡にいるであろう光とまなかのことを思った。

まなかは一年前のおふねひきの後、光に告白したらしい。晴れて両想いとなった二人は表面上は前と変わらない関係で過ごしているが、時折ふいに近付いて、くすぐったいような空気が流れることがある。それが微笑ましくて、お節介半分からかい半分で二人に買い出しを任せたクラスメイトの気持ちもわかるような気がした。

そんなことを考えているうちに、海神様への供物となる魚のぬいぐるみが出来上がった。今日頼まれた分はこれで全部だ。思ったよりもはやく終わったことだし、他の人の手伝いをしようと裁縫道具を片付けて腰を上げる。と、ちょうど襖が開かれて清木と秋吉が入ってきた。

「ちさき、今、手空いてる?」

「うん、ちょうど終わったところ」

清木に尋ねられ、ちさきは頷いた。清木が「ちょうどよかった」と手を叩く。

「今日、炊き出しやるでしょ? その材料が足りないから買ってきてくれって頼まれたんだけど、結構量があるから、手伝ってくれない?」

「いいよ。なに買うの?」

「これ」

秋吉が持っていたメモを見せてくれた。一つ一つはたいした量ではないが、品数が多い。二人でも持てないことはなさそうだが、造船所からサヤマートまでの道のりを考えると、確かにもう一人くらいほしいかもしれない。

同じ部屋で作業していた別のクラスメイトに声をかけてから、二人についていく。
造船所の外にでたところで、ふと、色の剥げた船にペンキを塗り直す一団が視界に入った。気付いた時には、目がその中の一人を追っている。騒ぐ男子たちの中で、黙々と作業を進める少年を。

「ちさきー?」

「ごめん、今いく」

清木に呼ばれ、ちさきははっとして少年に背を向けた。


******


いったい、いつからその人を目で追うようになったのか。
わからないが、そうなる予感のようなものは一年前の秋にはすでにあったように思う。

その日、ちさきは学校の水場に一人で浸かっていた。いつもならとっくに家に帰っている時間だが、用事があるからと一人だけ学校に残ったのだ。
だが、用事があるなんて、ただの方便だった。本当は、なんとなく一人になりたかっただけだ。
特別なにかあったわけではない。自分でもどうしてそんな気分になったのかわからず、教室で宿題を片付けたあとは、図書室で読む気もない本を眺めたり、ふらふらと中庭を歩いてみたりと、ずいぶん無為な時を過ごしてしまった。今も乾いたエナを潤しながら、ただぼんやりと自分の顔が映る水面を眺めているだけだ。

遠くの方で五時の歌が流れ出す。はっとして顔を上げると、金色の夕陽が空に滲んでいた。地面に落ちた影もいつの間にかずいぶんと長くなっている。
そろそろ帰るべきだろうか。このままここにいたところで、なにがあるわけでもないし。
水場から上がり、制服が乾くのを待つ。裾から落ちた水滴がぽつぽつと地面にいくつもの染みをつくるのをぼんやりと見ていると、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。そちらに目をやると、紡が階段を上ってきた。

「まだ残ってたのか」

「そっちこそ」

「さっきまで図書室にいたから」

そういえば、図書室に行った時に静かに本を読む紡を見かけていた。なんとなく声をかける気になれず、無視してしまったが。
それがどうして、こんなところに来たのだろう。

「なにかあったの?」

「それは、あんたの方じゃないか」

尋ね返されて、ちさきは息を呑んだ。
どうして、この人はいつも見透かすような目で見つめてくるのだろう。

「ウミウシ、また必要?」

どう答えようか、少し迷った。誰にも言えないというよりは、どう言えばいいのかわからないものなのだ。曖昧模糊としていて、うまく話せる自信がない。
それでも、紡なら聞いてくれるだろうか。

「……じゃあ、なってくれる?」

「ああ」

紡が頷いてくれただけで、ほんの少しだけ胸が軽くなる。深呼吸をして、ちさきは言葉を探しながら語りだした。

「誤解しないでほしいんだけど、前と同じことで悩んでるわけじゃないの。光とまなかが両想いだったことは、私も本当に嬉しかったの。多分、ずっとそうであってほしいと思っていたから」

自分で言っておきながら、ずいぶんと矛盾していると思った。まなかに嫉妬しておきながら、光とまなかが両想いであればいいと願っていたなんて。けれど、どちらも本心だった。

「私ね、まなかを好きな光が好きだったんだ。振り向いてほしいって気持ちがなかったわけじゃないけど、それ以上に、光にはずっとまなかを好きでいてほしかったし、まなかにもずっと光に守られててほしかった。そうやって、なにも変わらずに、みんなとずっと一緒にいたかった。それが私の一番の望みだったの。だから、ふられちゃっても後悔はないんだけど……」

そこで一度言葉が途切れた。
いつかの要の顔が頭を掠める。向けられた想いに対する答えを、ちさきはいまだにだせずにいた。考えてと言われたし、そうでなくても考えなくてはと思うのに、考えようとすると、それを拒むように気が重くなる。それはきっと、相手が要だからではない。恐らく相手が誰であっても、私はそれを考えたくないのだ。
その理由が自分でもよくわからなかった。深く考えたこともなかった。だが、紡に話そうと思うと、意外にもすんなりと言葉がでてきた。

「光が好きって気持ちは、もうずっと私の中にあって、もう私の一部になってて……、だから、いつかこの気持ちがなくなったら、私はどうなっちゃうんだろうって、それが不安で、怖いんだと思う」

口にしてはじめて、自分の悩みの形が見えた。
最初に誤解しないでほしいと言っておきながら、結局は前と同じように変わりたくないだけだった。紡にも呆れられたかもしれない。
無意識のうちに俯いた顔に苦笑を浮かべる。すると、力強い声が降ってきた。

「大丈夫だろ、今のあんたなら」

「えっ?」

あっさりと一蹴されて困惑する。
呆れて適当にあしらってるんじゃ……。
そんなことをする人ではないと知っているけれど、つい悪い方向に考えてしまうくらいの即答だった。

「そんな、根拠もなしに」

「根拠ならある。光の時も、あんたは自分で考えて答えをだしただろ。俺はずっと見てたから、今のあんたなら大丈夫だろうって、そう思った」

それだけの根拠で憂いがなくなるほど、ちさきは自分を信じられない。けれど、どこまでもまっすぐな眼差しを向けられると、どうしてか、その言葉を信じてみてもいいような気がしてきた。

「ありがとう。少し、怖くなくなった気がする」

ちさきは眩しげに目を細めた。紡も穏やかな微笑を浮かべる。
夕陽に優しく包まれたかのように、あたたかななにかが胸の内に広がっていくのを感じた。思えば、それが兆候だったのだ。

それは、その後もたびたびあった。紡となんてことのない言葉を交わしている時に、ふとした瞬間の微笑を見た時に、知らなかった一面を知った時に、同じように胸の内に広がっていくものがあった。
何度もそんなことを繰り返しているうちに、ある日、いつの間にか紡のことを目で追っている自分に気付いた。
あれほど怖がっていたはずなのに、その事実は拍子抜けするほどすとんと胸に落ちて、驚くことすら忘れるくらいあっさりと、ちさきは自身の心の変化を受け入れたのだった。

それから少しして、ちさきは要に返事をした。はっきりと自分の気持ちに気付いたからには、いつまでも保留にはできなかった。
その時、自分がいったいなにを言ったのか、実はあまり覚えていない。どう言えば傷つけずにすむのかばかり考えて、でも、そんな都合のいい言葉があるわけもなくて、とにかく謝ってばかりだった気がする。
だが、最後に要に言われた言葉だけは、頭にこびりついて離れなかった。

「ちさきも、いつかここからでていくの?」

地上の人間と結ばれた海の人間は、海村から追放される。
その掟を忘れたわけではなかったが、その言葉を聞くまで自分に関係あることとして考えたこともなかった。
だが、もし、この想いが実ったら、二度と海には帰れなくなるのだ。あかりの結婚を見届けた時は、それでも素敵なことだと思えたけれど、自分のこととなると足が竦んだ。かといって、ぬくみ雪のように降り積もる想いを止めることもできなかった。
私はこの想いをどうしたいのだろう。
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