聞けない願い
その日の朝、ちさきはなかなか起きてこなかった。思えば、それが兆候だったのだろう。
先にいつも通りの時間に起床した紡が朝食と弁当をつくり終えても起きてこず、心配して様子を見にいくと、まだ布団にくるまっていた。声をかけても反応がない。枕元に膝をついて顔を覗き込んでみると、穏やかに目を閉じて眠っていた。ちさきの額に手をあててみるが、熱があるわけではなさそうだ。

「ちさき、起きろ」

少し安心してちさきの肩を揺らすと、ゆっくりと目蓋が持ち上げられた。とろんとした青い瞳に見上げられ、「紡……?」と囁くように呼ばれる。ああ、と返事をすると、ちさきはそろそろと上体を起こし、机の上の時計を確認して目を見張った。

「えっ、もうこんな時間!? 遅刻しちゃう!」

「朝飯と弁当はつくってあるから、そんなに慌てなくても間に合う」

宥めるような声音で言うと、ちさきはほっと胸を撫で下ろし、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんね、私の仕事なのに」

「気にしなくていい。そんなことより、具合悪いのか? つらいなら、学校休んでも」

「大丈夫。昨日、ちょっと夜更かししちゃっただけだから」

きまり悪そうに笑った顔は寝起きのせいか少し疲れているようにも見えて、紡は顔を顰めた。
ちさきがさらに苦笑を深める。

「本当に大丈夫だから。ほら、着替えるから、紡は先に朝ご飯食べてて」

そう言われてはいつまでもここにいるわけにいかず、紡は仕方なくちさきの部屋を後にした。
台所に戻って朝食を豆ちゃぶ台に並べる。ちょうど食べはじめたところで、ちさきが早足で下りてきた。
座布団に正座し、いただきます、と手を合わせて朝食を口にするちさきの様子を窺う。「紡のお味噌汁、やっぱりおいしい」などと嬉しそうに味噌汁を飲む姿は、案外普通に見えた。本人の言う通り寝不足なのか少しぼーっとしてはいるが、学校を休むほどではなさそうだ。
無理はするなよ、と念を押すだけにして、一緒に登校することにした。


******


変化に気付いたのは、四限の前だった。
教室移動の途中、廊下で偶然ちさきを見かけた時、朝よりも顔色が悪くなっているような気がした。

「ちさき」

「紡?」

近付いて声をかけると、ちさきは不思議そうに振り返った。ぼんやりとした目が少し潤んでいる。

「お前、熱でてきたんじゃないか?」

「えっ?」

返事を待たずにちさきの額に手をあてると、朝よりずっと熱かった。

「やっぱり熱い。保健室、行くぞ」

紡はちさきの手を掴んだ。いつもはひんやりとしているはずなのに、今はひどく熱を持っている。
軽く引っ張ると、ちさきははっと目を見開いた。

「あの、一人で行けるから。だから、紡は教室戻って。授業、遅れちゃうでしょ」

「無理はするなって言っただろ。保健室まで送る」

そのつもりはなかったが、ずいぶんときつい言い方になってしまった。
ちさきが顔を歪めて俯く。ごめん、と呟かれ、紡は手を離した。

「べつに、責めてるわけじゃない」

苛立っているというのなら、それは自分に対してだ。ちさきが無理しがちな性格だとわかっていたはずなのに、どうして楽観視してしまったのか。

「俺のことは気にしなくていいから、行くぞ」

言葉だけで促すと、今度はちさきも拒まなかった。
近くにいたちさきのクラスメイトに事情を伝えて、保健室までつれていく。熱を測ると三十八度を超えていたので、そのままちさきは保健室で休むことになった。

その後の授業はひどく長く感じられた。ちさきのことが気になって、内容が頭に入ってこない。そのくせチャイムの音だけはやけにしっかりと聞こえた。
週末のせいか、いつもより長いホームルームがようやく終わると、紡は即座に教室を出て保健室に向かった。
失礼します、と声をかけてから保健室に入る。中には養護教諭だけでなく清木もいた。清木の手にはちさきの鞄が提げられていた。

「あっ、木原くん。ちょうどよかった。ちさき、まだ寝てるみたいで」

と、清木はベッドの方を見やった。養護教諭の話では、夕方になってまた熱が上がってきたらしい。
清木に「これ、ちさきの」と鞄を差し出され、紡は受け取って礼を言った。

「じゃあ、私はもう帰るから、ちさきにお大事にって伝えておいて」

清木は心配そうな顔で保健室から出ていった。
紡も養護教諭に祖父が入院していることを話し、もう少しだけ保健室で休ませておいてほしいと頼んで、波七海病院に向かった。


******


紡が病室に入ると、勇はかすかに目を丸くした。

「ちさきはどうした?」

「熱がでて、今は学校の保健室で休んでる」

だから悪いけど今日はすぐに帰るよ、と伝えようとしたが、それより先に「はやく迎えにいってやれ」と言われてしまった。

「熱があるとエナが乾きやすくなるから、気を付けて看てやれ」

「わかってる」

以前ちさきが風邪をひいた時と同じことを言われ、紡は苦笑した。祖父もかなり心配しているらしい。
タオルと着替えを交換して、病室をでる。売店でスポーツドリンクと冷却シートを買って、急いで学校に戻った。

保健室に入ると、机に向かっていた養護教諭が立ち上がった。

「ちさ……比良平は?」

「まだ寝てるわ。全然熱が下がらないみたいで」

「そうですか」

紡は顔を曇らせた。
こんなことなら、朝の時点で休ませるべきだった。様子がおかしいことには気付いていたのに、どうしてその判断ができなかったのだろう。
祖父が倒れた日のことを思い出す。あの時の自分のことを責めていたちさきの気持ちが、今はよくわかった。

「ただの風邪みたいだから、ゆっくり休めばよくなるでしょうけど。明日になっても熱が下がらないようだったら、病院に連れていってあげて」

養護教諭は励ますように声を明るくした。

「木原くんたちの家ってオオシよね? 帰るの大変だろうし、私の車で送ってくわ」

「いいんですか?」

「いいのよ、うちもオオシだから」

「ありがとうございます」

紡は軽く頭を下げた。ちさきの体調を考えると、養護教諭の厚意は本当にありがたい。
養護教諭はカーテンのかかったベッドに向かい、声をかけた。起きられるか、という問いに、囁くようなものだったが、はい、と肯定する声が返ってくる。少しして、髪を下ろしたちさきがベッドから降りてきた。その時、わずかにふらついたので紡は慌てて駆け寄り、肩を支えた。制服越しでもわかるほど、ちさきの身体は熱かった。

「ありがとう。もう平気だから」

「大丈夫じゃないだろ。歩けないなら、おぶってく」

ちさきは首を振りかけたが、眩暈がしたのか、また紡に寄りかかってきた。切れ切れの息の合間に「ごめん、お願い」と申し訳なさそうに囁かれる。紡は頷き、ちさきを背に担いだ。耳元で荒い呼吸が繰り返される。それは時々咳になった。
なるべく揺らさないよう慎重に歩いて、養護教諭とともに駐車場に向かう。車の後部座席に乗り、紡は養護教諭に家の場所を伝えた。
ゆっくりと車が動きはじめる。しばらく進んだところで病院の屋根が見え、ちさきが思い出したように声を漏らした。

「おじいちゃんのとこには……」

「さっき行ってきた。お前よりは元気そうだったよ。……ああ、それと、清木がお前にお大事にって」

「そっか。みんなに心配かけちゃったな」

そのうちに、ちさきが肩にもたれてきた。また眠ってしまったようだ。熱で魘され、眉根を寄せていた。
寒いのか、身体が震えている。意味はないかもしれないが、小さな肩をそっと擦った。
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