波のまにまに
浜に寄せる波の音。潮を運ぶ風の音。空を飛び交う海鳥の声。沖を行く船のエンジン音。海沿いの通りは、五年間の暮らしの中で耳に馴染んだ音で満ちていた。
紡が海に目を向けると、遥か彼方の水平線が低い雲を乗せて揺れているのが見えた。視界の端を漁船が通り過ぎていく。なんとはなしに目で追いかけると、船は青々とした海面に伸びる橋脚の影を切って、岩場へ向かっていった。
その時、波の合間で何かが銀色に輝いた。それは一瞬のことで、すぐに波にもまれて消えていく。きっと魚の腹か何かが太陽を照り返したのだろう。

ふと、その光景によく似た記憶が呼び起された。
五年前、鴛大師に来たばかりの頃だ。汐鹿生の人に向けて手紙を書き、瓶に入れて海に流したことがあった。「オオシはあついです。シシオはすずしいですか?」とだけ綴った、他愛もない、宛名もない手紙を、どこか高揚した気持ちで祖父の船から出したことを覚えている。
あの時も、手紙を入れた瓶が一瞬きらめき、波に呑まれて沈んでいくのを見ていた。

あの手紙はどうなったのだろうか。

返事はなかった。当たり前だ。差出人の名前も書いてなかったのだから。仮に書いてあったとしても、わざわざ返事をしようとする人間がどれほどいるだろうか。
そもそも、汐鹿生の人の手に届いたかどうかも疑わしい。潮に流されて、誰の目にも触れない海底で朽ちてしまったのかもしれない。

しばらく行くと、埠頭の方から歩いてくる人影が見えた。普段ならば気に留めることもないが、今回は違った。距離が近づくにつれてはっきりと輪郭をともなった姿が、最近同級生になった少女のものだったからだ。
緩やかに波打つ髪はいつものように側頭部で一つに結われていたが、着ているものはいつもの制服ではなく――今日は休日なのだから当然だ――、青いTシャツとショートパンツというラフな格好だった。見慣れない姿に、紡は足を止める。

「あれ? 紡くんだ」

少し遅れて少女――ちさきも紡に気付き、わずかに青い目を丸くした。が、すぐに目を細め、おはようと挨拶をする。紡も同じようにおはようと返した。

「紡くんは、おじいさんのお手伝い?」

ちさきは紡の手に提げられたバケツに入った漁網を見て尋ねた。その通りだったので、ああと頷く。

「じゃあ、似たようなものだね。私もお母さんにおつかいを頼まれて」

ちさきは手に持ったトートバッグを少し掲げてみせた。
と、その反対の手にオレンジ色の缶が握られていることに気付く。見覚えのあるそれには、やはり「もりのどうぶつジュース みかん」と印字されていた。

「それ、あんたも好きなの?」

「えっ?」

「その缶」

「ああ、これ?」

ちさきは缶を持つ手を上げて、そこに描かれたアライグマを見やった。

「さっき海の中で拾ったの。ゴミだし、ちゃんと捨てようと思って。結構落ちてくるんだよ、こういう地上のもの」

「……そうか」

その返答にどこかがっかりする自分がいた。しかし、同時に湧いてくる興味もあった。

「たとえば、どんなの?」

「どんなって、こういうゴミとか水中メガネとか。……あっ、要は外国のコインを拾ったことがあるって言ってたよ。たまに、そういう嬉しいものも落ちてくるんだよね」

記憶を手繰るように虚空に目を向けていたちさきは、おおよそ引き出し終えたのか、再び紡に視線を戻した。
へえ、と紡は相槌を打つ。宝探しでもするように、浜に打ち上げられたものを拾い集めるのに少し似ているかもしれない。流木やゴミばかりの砂浜で、綺麗な貝やシーグラスなどを見つけると得した気分になるものだ。

「私は手紙の入った瓶が一番嬉しかったな」

「手紙?」

「そう、地上の人からの。差出人は書いてなかったけど」

懐かしむようにちさきは目を細めた。
先ほど思い出した映像が、紡の脳裏に再び鮮やかに甦る。できすぎた話だ。それでも、もしかして、と気持ちが逸った。

「それって、いつ?」

「えっと、五年前の夏だったかな」

「なんて書いてあったんだ?」

尋ねると、呆気にとられたような顔で見つめられた。どうしたのかと首を傾げると、ちさきが小さく噴き出す。紡は眉を顰めた。

「そんなに変なことだったのか?」

「ごめん、違うの。それは関係なくて。紡くんがあんまり急かすから、おかしくて」

確かに、少し食い気味に突っ込んでいたかもしれない。知らず知らずのうちに軽く前のめりになっていた身体を起こす。
それを見て、ちさきはまた笑みを零した。

「手紙には『オオシはあついです。シシオはすずしいですか?』って」

「それが、嬉しかったのか?」

「うん、地上の人も海の中のこと考えたりするんだって。結局返事は出せなかったけど、それからしばらくはずっと地上のことばかり考えてたな」

「そうか、嬉しかったんだ」

心が浮き立つのを感じた。
あの日の自分がしたことは無駄ではなかったのだ。あの手紙は他の誰でもないちさきの手に渡り、彼女の心を動かした。紡が海に憧れるように、ちさきも地上に想いを馳せたのだろうか。船の上から海を覗き込むように、海の中から地上を見上げたのだろうか。
想像してみると、見たこともないはずの幼い少女に出会えたような気さえした。

「それで、どうなの?」

「どうって?」

「シシオも暑いのか?」

ああ、とちさきの顔に理解が広がった。

「地上よりは涼しいよ」

「そうか」

五年越しの返事に紡は笑みをはいた。
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