かわたれの
夢を見た。
夢の中の私は海の底にいて、みんなと一緒に眠っていた。

ああ、よかった。
これでみんなとずっと一緒にいられる。

そう思ったのに、目が覚めた時、どうしてか私の頬は濡れていた。


******


「なにしてるんだ?」

背後から声をかけられ、ちさきは肩を跳ねさせた。履きかけの靴をそのままに振り返ると、パジャマを着たままの紡が怪訝な顔をして立っていた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「それは気にしてない。どっかいくのか?」

こんな朝早くに、と紡は白々と薄明るい玄関の向こうを見やった。
ただ疑問に思っただけかもしれないが、咎められている気持ちになる。

「なんか目が冴えちゃったから、散歩でもしようかなって」

「俺もいく」

「えっ、いいよ。紡は寝てて」

「女が一人で出歩くような時間じゃないだろ。着替えてくるから、ちょっと待ってろ」

有無を言わせぬ語調で言い置いて、紡は階段を上がっていった。
承諾してないんだけど、と反発する気持ちが湧いてくるが、無視して置いていったらすごく怒るだろう。仕方なく、ちさきは靴だけ履いて待った。

さして時間をかけず、紡は着替えて下りてきた。心配性なんだから、と溢すが、紡が気にした様子はない。これ以上は言っても無駄だろう。呑み込んだ文句をため息として吐き出して、一緒に外に出た。

少し冷えた風が肌を撫でる。見上げた空にはまだぼんやりと星が瞬いていたが、東の山の端はすでに藍色から橙へと変わりゆこうとしていた。

「なんか、ちょっと不思議な感じがするね」

「そうだな」

夜と朝の挟間の空を見上げながら、ちさきは歩き出した。紡も静かに歩幅を合わせて隣に並ぶ。
一人でよかったはずなのに、肩を並べて歩くことに何故か安心する自分がいた。その理由を深く考えないようにして、坂道を下って海沿いの通りにでる。ほのかな朝の光の中では、海に浮かぶ氷も青っぽく見えた。

「少し、水浴びしてきてもいい?」

海へと続く岩場が見えたところで、ちさきは切り出した。
エナが乾いたわけではない。起きてすぐ塩水に浸けたから、あと数時間は確実に保つ。それでも、今、海に入りたかった。
紡は少し訝しげな顔をしたが、なにも訊かずに頷いてくれた。

岩場を下りて、海に足を浸ける。いつもと変わらぬ冷たい海水に頭まで潜ると、慣れ親しんだ水の感触が全身を包んだ。
こうして海に入ると、やはり自分は海の人間なのだと実感する。どれだけ地上の空気に慣れても、本来いるべき場所はこちらなのだ。
けれど、時を止めた海に冬眠できなかった者の居場所がないことも身をもって知っていた。

ちさきはちらと海底を、海村があるはずの場所を肩越しに振り返った。
何度も帰ろうとした故郷。けれど、その度に潮流に押し戻されて、辿り着くことはおろか姿を見ることすら叶わなかった。
今、行ってみたところで結果は同じだろう。きっと冬眠が終わるまで、汐鹿生への道は閉ざされたままなのだ。ちさきにできることは、その時を信じて待つことだけだった。

痛んだ胸を押さえて地上に戻ると、紡が岩場に腰かけて待っていた。この光景も何度見ただろう。
紡の隣に腰を下ろして、足だけ水に浸す。
背中に張り付いた髪を払うが、あまり意味はなかった。すぐにエナが水分を吸収するとはいえ、肌に張り付いた髪は少し鬱陶しい。面倒くさがらずに、髪を結んでくればよかった。
ため息をついて、濡れた髪を耳にかける。と、隣から視線を感じて、ちさきは顔を上げた。

「なに?」

紡はかすかに目を張ってから、ついと視線を海に落とした。

「寒くないのか?」

「慣れてるから。それに、海の人間って地上の人より寒さに強いみたい」

「そうか」

そのまま紡は海を眺めた。
明け方のまだ青い光が精悍な横顔を照らす。海を見つめる眼差しは、凪いだ水面のように静かだった。
思わずじっと見入ってしまったことに気付いて、後ろめたさを感じながら目を逸らす。
と、岩影でもぞもぞと動くものを見つけた。

「ウミウシ?」

その声に紡も振り返る。捕まえて、ほら、と見せてみると、興味深そうな声を漏らした。

「久しぶりに見たな」

「最近は全然見かけなかったもんね」

ウミウシの背中を撫でてから、腹の色を確認してみる。ひっくり返して見えたのは、薄い緑色だった。

「お腹は緑だね」

赤ウミウシなんて簡単に見つからないとわかっていても、少し残念に思ってしまう。赤ウミウシが見つかったところで、言える想いもないけれど。
自嘲するように苦笑して、ちさきはそっとウミウシをもといた場所に帰した。

「なろうか、ウミウシ」

「えっ?」

顔を上げると、見透かすような瞳に射抜かれた。

「なにかあったんだろ?」

そのくらい気付かれていることはわかっていた。それでも、直接指摘されると言葉に詰まる。
息を呑んで、ちさきは逃げるように目を伏せた。揺らぐ水底が瞳に映る。夢の中の私は、あの中で眠っていたのだ。

「夢を見ただけ。本当に、それだけだから」

「悪い夢だったのか?」

「……いい夢だったの。いい夢だった、はずなの」

山の端はすでに藍色から橙へと変わりゆこうとしているのに、いまだ空には星が瞬いている。薄青い光とも闇ともつかないものに包まれたこの光景の方こそ、現実感がなくて夢のようだった。
もしも、今この時が夢だったら――。
本当の私は海の底でみんなと一緒に眠っていて、あの日からずっと地上の夢を見ているのだとしたら――。

なんて、残酷な夢を見ているのだろう。
なんて、優しい夢を見ているのだろう。

つむった目が熱くなって、涙が滲む。
その時、なにかがそっと背中に触れた。大きくて、あたたかなそれは紡の手だった。
なにも言わずに寄り添う温度は確かな実体を持っていて、胸の奥底に押し込めたものが揺さぶり起こされそうになる。
それに気付かないふりをして、背中に触れる体温を感じながら、涙が海に落ちていくのをずっと見つめていた。
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