未来も知らぬ子ら
水底から見上げた夕陽は赤く揺れていた。近くて遠い陽光を掴むように伸ばした手で水をかき、ちさきは海面に顔を出す。
造船所から少し離れた埠頭には他に誰もいない。海から続く埠頭の階段に腰を下ろし、脚を水に浸けた。

いよいよ今夜、おふねひきが執り行われる。ここに至るまで問題は多かったが、光が動かした大勢の人の助けのおかげで準備はなんとか終わり、あとはその時を待つだけだ。
ちさきは造船所を一瞥し、また海を見つめた。
人々の喧騒に反し、海はひどく静かだった。厳かにも感じられる静寂は、なにかの予兆のようでもある。そのせいか、妙に胸がざわついて落ち着かなかった。
エナが乾いたからと少し抜けさせてもらったが、そろそろ戻らなければ。
そう思うのに、立ち上がる気になれないのも、そのせいだろうか。

その時、足音が聞こえた。
振り返ると、おふねひきの法被を着た紡が駆け寄ってきて、ちさきは目を丸くした。

「紡くん、どうしたの?」

「あんたが一人で歩いていくのを見かけたから」

心配して様子を見に来てくれたのだろうか。
ちさきは苦笑した。

「エナが乾いたから水浴びしてただけ。ごめんね、心配かけて。もう少ししたら、戻るから」

言外に、先に戻ってて、と言ったのだが、伝わっていないのか、わかっていて無視しているのか、紡は隣に立ったまま動こうとしなかった。

もしかすると、ほんの少しの嘘を見破られていたのかもしれない。
水浴びなんて、ただの言い訳だ。エナが乾いたのは嘘ではないけれど、それだけならこんなところまでくる必要はない。
本当は、訳もなく一人になりたかっただけだった。

紡はなにも言わず、ただ寄り添うように隣に佇んでいる。
けして一人にはしてくれないけれど、不思議と嫌ではなかった。それどころか、穏やかな気配に心地のよさすら感じる。
だからか、気付いた時には言うつもりのなかった言葉が口をついて出ていた。

「ゆうべ、光に告白したの」

紡は驚かなかった。きっと全部わかっているのだろう。
それでも、言いたかった。他の誰でもない紡に、聞いてほしかった。
それで、ようやく確かなものになる気がした。
この恋に後悔はないという気持ちも。痛みも哀しみも、きっといつかは大切な人の幸せを純粋に願える心に変えていけるという期待も。

「ふられちゃったけど、伝えられてよかった。光を好きになって、よかった」

笑ったつもりだったけれど、声は少し震えてしまった。
紡がしゃがんで、顔を覗き込んでくる。ちさきは瞬いた。

「紡くん?」

「泣くかと思った」

ちさきは軽く目を見張ったが、すぐにふっと笑みを漏らした。

「昨日、さんざん泣いたから」

「そうか」

相槌を打つ声には、いつもより情感が籠っている気がした。
ずいぶんと気にしてくれていたらしい。

「紡くんって、結構お節介だよね」

「迷惑か?」

「ううん、ありがとう」

安堵したように、紡はかすかに息を吐いた。
ふと、前にも似たような会話をしたことを思い出した。紡がちさきたち海の人間のために水場をつくってくれているのを知った時のことだ。
けれど、気持ちはあの時よりも穏やかだった。

あの時はいい人だけど、自分たちの関係を変えてしまいそうなこの人が少し怖かった。その予感はきっとあたっていた。
地上に上がって、紡と出会って、光も、まなかも、要も、そしてきっとちさきも変わった。彼がもたらしたものは、ちさきが望むものではなかった。

けれど、それ以上に、誰にも言えなかった気持ちを真剣に聞いて、受け止めてくれた。
自分自身ですら否定し捨てようとした想いを掬い上げ、肯定してくれた。
恐れを抱きながらも前に進む決意に気付いて、背中を押すように微笑んでくれた。

受け入れられなくて、酷いことを言ってしまった時もあったけれど、紡のしてくれたことは確かに助けになっていたのだと、今なら認められる。
ありがとう。本当に、心からそう思う。

「そろそろ、戻らないとだね」

すっとちさきは立ち上がった。紡も同意して立ち上がる。
日が沈んだら、おふねひきがはじまる。これでなにも変わらなければ、海の人間はみな冬眠しなければならない。そうしたら、紡とも二度と会えなくなってしまうのだろうか。

「ねえ、紡くんは私たちが冬眠するの、反対?」

尋ねながら、語気が弱々しくなっていった。一瞬の沈黙に俯いてしまう。けれど、次に聞こえた言葉にはっと顔を上げた。

「会えなくなるのは、嫌だ」

「そっか」

嘘のない、その答えが嬉しくて、胸にあたたかなものが広がった。

「なにか、起きるといいね」

「そうだな」

頬を撫でていった潮風に、二人は水平線の向こうを見やった。静かな時の中、凪が黄昏を誘っている。
なにも知らない瞳が、まっすぐに希望を見つめていた。
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