花の名前
玄関の戸を開け、ただいまと声をかける。だが、返事はなかった。自分の声が虚しく消えていった我が家に人の気配はなく、紡はわずかに眉を顰める。
漁の最中に海沿いの道を歩くちさきを見かけていたから出掛けたのは知っていたが、まだ帰ってきていないのか。
壁にかけられた時計を一瞥し、心配するような時間ではないことを確認するが、漁から帰ってきた時はいつもちさきが出迎えてくれていたせいか、違和感のようなものが胸中を過った。

それでも、いつものように漁網やバケツを片付けていく。
すぐに終えてまた時計を確認しようとした時、外から足音が聞こえてきた。玄関の方に向かうと、ちょうど引き戸が開いて、ちさきが中に入ってきた。
その手が買い物袋を提げているのは予想通りだったが、もう片方の手が杜若を数輪抱えていて、紡はかすかに目を丸くする。

「おかえり」

「ただいま。……あれ、おじいちゃんは?」

奥を見やって、ちさきが首を傾げる。紡は少し肩を竦めて答えた。

「煙草買いに行った」

「そっか……あんまり身体によくないと思うんだけど」

困ったような顔をするちさきに同意して、紡は白い腕に抱えられた青い花に目を向けた。

「それ、どうしたんだ?」

「また隣のおばさんがくれたの。でも、この前貰った花もまだ元気だから、どうしようかなって。他にも花瓶ってあるかな?」

「多分、納屋に」

納屋に足を向けたところで、ちょっと待ってと引き止められた。
不思議に思いながらも足を止めると、ちさきは台所に入って買い物袋を置き、棚から空き瓶を取り出した。それに水を入れ、杜若を挿す。簡易の花瓶となったインスタントコーヒーの瓶をとりあえずシンクに置いて戻ってくると、「あれじゃ不格好だから」と苦笑いを浮かべた。

二人で納屋に行き、扉を開けて中に入ると、埃っぽいにおいが鼻についた。日暮れでもないのに薄暗く、物を探すには不便だ。入り口脇にあるスイッチを押し、電灯をつけた。
普段使わないものは奥に仕舞ってあるはずだ。紡はまっすぐ奥へと進んでいった。その後ろをちさきがついていく。

「この辺だったと思うけど」

適当に物をどけていくと、つるつるとしたものが手に触れた。花瓶かと周りの物をどけて現れたのは陶器ではあったが、思っていた物より二回り以上も大きい。花瓶というよりは、甕といった方が適切だろう。

「これだと、でかいな」

「そうだね。これには挿せないかな」

顔を見合わせ苦笑し、ちさきは「こんなものもあったんだね」と興味深そうに白い甕を眺めた。
別の場所にも視線を滑らせてみると、近くには重ねて置かれた鉢もあった。昔はこの鉢で花を育て、花瓶や甕に生けていたのだろうか。これもそのうちちさきが使うことになるのかもしれない。壊さないよう、紡はそっと鉢を移動させた。

「紡のおばあさんも、花が好きな人だったの?」

「さあ? 俺がこっちに来た時にはもういなかったから、よく知らない」

淡々と事実を述べただけなのだが、はっとしたちさきに、ごめんなさい、と弱々しく謝られた。

「そんな気にするようなことじゃない」

血の繋がった祖母とはいえ、一度も会ったことのない人だ。薄情かもしれないが、感傷などなにもない。ちさきに言われるまで、納屋に仕舞われたままだった花瓶や鉢を祖母と結びつけることすらなかったほどだ。
ちさきが漂わせる気まずさに、これ以上どんな言葉を返すべきかわからず、紡は花瓶探しを再開する。
棚の上を漁ってみると、何年か前に見た覚えのある桐箱が見つかった。花瓶にしては背が低いが、引っかかるものがあって、蓋を開けてみる。中にあったのは丸く平たい花器と剣山だった。

「これは?」

と見せてみると、ちさきはぱっと顔を明るくした。

「うん、これなら使えそう」

ありがとう、と微笑んだちさきに紡も安堵して表情を緩めた。

花器を洗って花と一緒に居間に運ぶ。その前に座り、ちさきは眉を寄せた。どんな形に生けようか悩んでいるらしい。
隣に紡が腰を下ろすと、ちらと一瞥はしたが、すぐに気にしないことにして、杜若と向き合った。
やがて、眉間の皺を和らげ、ちさきはハサミと杜若を一輪手にとった。慎重に茎を切って、剣山に刺す。
二輪目も同じように茎を切ったが、今度は剣山に刺さず、紡の方に差し出した。

「ごめん、ちょっと持っててもらえる?」

「ああ」

受け取ると、ちさきは真剣な顔で杜若の葉を刺していった。
時折迷いながらも慣れた様子で生けていく手は白く、短く切り揃えられた爪は桜貝の色をしている。自分の手と比べてみると随分と華奢なつくりをしており、日の光にあたるとエナの輝きが葉に落ちた。
その手がまた紡に差し出された。持っていた杜若を返すと、剣山に刺される。それで完成らしく、ゆっくりと手を離し、ちさきは紡に向き直った。

「どう?」

白く平たい花器の中、緑の葉に囲まれて佇む青い花は涼しげで、空き瓶に適当に挿されていた時よりも凛として見える。
ちゃんと生けるだけでここまで変わるのかと、紡は感心を覚えた。

「いいと思う」

「よかった。箪笥の上に飾っても大丈夫かな?」

紡は箪笥を見やって頷いた。あまり大きな花器ではないから問題はないだろう。
ちさきはそっと花器を持ち上げて、箪笥の上に置いた。少し向きを調整して満足そうな笑みを浮かべる。と、なにか思い出したように振り返った。

「ねえ、これ、なんていう花?」

「杜若だろ」

「へえ、名前は聞いたことあったけど、こんな花だったんだ。涼しげでいいね」

母親の影響で花が好きだと言っていたので、杜若を知らなかったことが意外だったが、すぐにそれもそのはずかと思い直した。ちさきが知っているのは海の中の花で、地上の花についてはほとんど知らないのだろう。

「植物図鑑ならあるけど、読むか?」

興味があるならと提案してみると、ちさきはちょっと目を丸くしてから弾んだ声で頷いた。


******


玄関の戸が開く音が聞こえ、紡は読んでいた本から顔を上げた。帰ってきた勇と目が合って、おかえりと言うと、ただいまと返される。居間に上がって近くまでこられると、煙草のにおいが鼻についた。煙草を買いに行っただけにしてはやけに遅いとは思っていたが、外で吸ってきたようだ。

勇は箪笥の上の杜若に目を留めると、わずかに眉を上げた。

「ああ、それ、ちさきが隣のおばさんに貰ったって」

紡が答えると、勇はそうかと呟いた。

「あいつが好きだった花だ」

あいつって誰のことだ、と浮かんだ疑問は祖父の顔を見たらすぐに吹き飛んだ。
勇は花を見つめて、懐かしむように、愛おしむように目を細めていた。
この家で暮らすようになって六年経つが、祖父のこんな顔を見るのははじめてだ。こんなにも穏やかに気持ちの溢れた表情を浮かべることもあるのか。ひどく驚いたが、それが誰に向けられたものかはすぐにわかった。

(あとでちさきに教えてやろう)

あれは祖母が好きだった花だと。きっと祖父も好きな花なのだと。
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