夜舟
勇の病室を訪れ、いつものように戸棚の中の着替えやタオルを入れ替えると、ちさきはベッドの横の丸椅子に姿勢を正して座った。その肩は見るからに硬くなっており、隣に座る紡にまで緊張が伝わってくる。
ちさきは一度深く息を吸うと、勇を見つめて言った。

「あのね、おじいちゃん。お願いがあるんだけど」

勇は無言で頷き、先を促した。

「私、看護師になりたいです」

ちさきが改まった口調で告げると、勇はかすかに微笑み、ただ一言「好きにするといい」と返した。その声色には安堵と確かな喜びが滲んでいた。倒れてからずっと血色の悪かった顔が少し明るくなったようにすら見える。
ちさきの顔にもゆっくりと笑顔が広がっていった。

「ありがとう、おじいちゃん」

「礼はいい。ただ、自分で決めたことなんだから、しっかりな」

「はい」

ちさきは弾んだ声で頷いた。
そうして照れ臭そうに髪を弄りながら、紡を見上げる。「だから言っただろ、絶対に喜ぶって」と勇の前なので口にはださずに心の中で答え、紡は首肯した。ちさきはさらに笑みを深くする。
それから少しして、あっ、と声を上げた。

「ごめん、まだ身体拭いてなかったよね。水、くんでくるね」

ちさきは棚から桶を取り出すと、病室の入り口にある水道に向かった。
その背中を紡は目で追う。あまり物音を立てないようにはしているが、ちさきの足取りは軽やかなもので、そっと目を細めた。

「紡」

ふいに、勇に名を呼ばれた。紡は瞬き、振り返った。

「なに?」

「お前も、俺に遠慮しなくていい」

紡はかすかに目を見張った。
進学を考えている以上のことを、祖父に話したことはなかったはずだ。いったい、いつから気付いていたのだろう。驚くとともに、自分などよりもずっと聡い祖父なら当然気付くだろうとも思えた。
なにも言えずにいると、勇はゆっくりと言葉を続けた。

「他に気にかかることがあるなら、気が済むまで迷っとけ。自分で答えをださんと、納得できるものでもないだろ」

「うん」

紡は神妙な面持ちで頷くと、膝の上で握った拳に視線を落とした。
その横顔を勇はどこか遠くを見るような眼差しで見ていた。


******


バスを降り、暮れなずむ海沿いの通りを歩く。ちさきと一緒に暮らすようになってからは何度も二人で通った道だが、高校に入学してしばらく経った頃から妙に距離を置かれるようになり、こうしてまた肩を並べて歩くようになったのは祖父が入院してからだ。
祖父が倒れたあの日、ちさきの中でなにかが変わったらしい。それは確かにいい変化で、このまま当たり前になってくれれば、と思わずにいられなかった。

「これから、また寒くなるって言ってたよね。おじいちゃんにも、なにか羽織るもの用意した方がいいよね?」

「そうだな。着替えももう少しあった方がいいだろうし」

「うん。他にいるものって、なにがあるかな?」

ちさきは口元に指をあてて考え込みはじめた。紡も一緒に考えようとして、ふと、海面に浮かぶ氷の上に人影を見つけた。
はっきりとは見えないが、背丈からして大人だろう。なにかを探すようにうろうろと歩き回っている。かと思えば、ふいに立ち止まってしゃがみ込んだ。近くにはテントが張ってあり、そこから出てきた別の人物がその人に歩み寄っていく。
あの辺りはちょうど汐鹿生の真上だ。今は潮流の関係でエナを持つ人間であっても辿り着くことはおろか、その姿を見ることすら叶わないが、確かに海底に海村が広がる場所だった。

(調査にきた人たちか?)

汐鹿生をはじめ各地の海村が冬眠に入って以来、鴛大師にも近隣の研究機関が調査に訪れるようになった。だが、どの海村にも近付くことすらできないうえ、機械を使ってもろくなデータ一つとれず、目ぼしい成果は上がっていないらしい。なにも語らないまま、海は静かに凍えていくばかりだった。

「……ぐ、紡ってば!」

突然袖を引っ張られ、はっとして立ち止まる。肩越しに振り返ると、ちさきがむくれていた。

「どうした?」

「通り過ぎてる」

ちさきが指さす方を見ると、家に続く坂道が随分と後ろの方にあった。あっ、ときまりの悪い声を漏らすと、もう、とぼやかれる。

「何度も呼んだのに、全然気付かないんだもん。びっくりしちゃった」

「悪い」

来た道を戻り、途中で曲がって坂道を登る。木陰になるせいか、他の道よりもぬくみ雪が融けずに多く残っていた。
歩を進めるごとに、木洩れ日が背を滑り落ちていく。その背中を見上げ、ちさきは訝しげに眉を寄せた。

「なにかあったの?」

「いや、少し考え事してただけだ」

「そう……」

家に着くと、ちさきは夕飯の支度をはじめた。その間に紡は着替えて風呂を沸かす。それが終わってから台所を覗くと、まだ料理をしていたので、手伝いを申し出た。これも以前は拒まれていたのだが、最近は普通に受け入れてくれるようになった。しかし、今日は久しぶりに「あと少しでできるから、紡は座ってて」と断られてしまった。

怪訝に思いながらも畳の上に座り、台所に立つちさきの背中を眺める。見たところ、本当に手を貸す余地はなさそうだ。それでも食器をだすくらいのことはすると、肩を竦められてから「ありがとう」と言われた。
できたものから豆ちゃぶ台に並べていき、囲炉裏を挟んで向かい合って座る。いただきます、と手を合わせて食べはじめると、ちさきが申し訳なさそうに口を開いた。

「ねえ、紡。悪いんだけど、明日のお弁当、今晩の残り物でもいいかな?」

「構わないけど、珍しいな。なにかあるのか?」

「ううん。ちょっと、煮物つくりすぎちゃっただけ」

自嘲するように、ちさきは苦笑いを浮かべる。それと同じ顔を四日前にも見たことがあった。あの時は、いつもの癖で魚を三尾焼いてしまったのだと言って、焼き魚を半分に切り分けていた。
勇が入院して一週間余り経つが、ちさきも紡も勇のいないこの家にまだ慣れずにいる。それでも、海のそばで暮らすことが当たり前になったように、ちさきと一緒にいることが当たり前になったように、いつかは慣れてしまうのだろうか。その前に祖父が退院してくれることを願うが、脳裏に張りついたそら恐ろしい考えが消えることはなかった。


******


食事をすませた後、自室の本棚から一冊の本を取り出す。青い表紙に飾り気なく題が印字されたそれは、地上に降るぬくみ雪をはじめとする異常気象に関する研究をまとめたものだった。研究されはじめたばかりで判明していないことの方が多いが、観測データだけでも興味深いものはある。
そのなかに、海村と異常気象との関係を立証しようとする研究もあった。それを行っている研究者が所属する大学は、鴛大師からそれほど離れているわけではない。だが、ここから通える距離でもなかった。

――私から、もう誰も奪っていかないで!

祖父が倒れた時のちさきの悲痛な叫びが耳の奥でこだまする。やがて、おふねひきが終わった夜の大切なものすべてから離されてしまった彼女の泣き声がそれに重なった。
正しくちさきのために自分ができる一番具体的なことは、海村を目覚めさせるために大学で研究することだろう。だが、そのためには病床の祖父をちさきに任せ、この家に一人残していかなければならない。そのことを思うと躊躇いがあり、進路調査票もいまだ引き出しに仕舞われたままだった。

「紡、今いい?」

おずおずとかけられた声に振り返ると、障子の向こうにちさきの影があった。
ああ、と返事をすると、障子が開かれる。ちさきは廊下に立ったまま、当惑したような面持ちで用件を口にした。

「あの、紡に電話。紡のお母さんから」

意外な人物に、紡は顔を顰める。一応、月に一度くらいは顔を見せてはいたが、あちらから連絡がくることは稀だった。
気乗りはしないが、今いく、と本を戻し、出入り口を開けるために一歩引いたちさきの脇を抜けていく。

居間に降りて電話をとると、確かに受話器の向こうからあの人の声がした。
あちらの用件はたいしたことではなく、今週の日曜に会えないか、とのことだった。下手に断って理由を尋ねられるのも、親ぶった小言を言われるのも面倒だったので、わかったとだけ告げて早々に受話器を置く。電話の横に置かれた両親と幼い頃の自分の写真が目に入って、苦いものが口の中に広がるのを感じた。

二階に戻ると、足音が聞こえたのか奥の部屋からちさきがでてきた。はやかったね、とかけられた声にはこちらを窺う色が滲んでいる。紡は尋ねられるより前に「週末、街に行くことになった」と簡潔に答えた。
そう、と小さく頷く声が床に落ちて消える。逡巡する気配が廊下を漂い、伏せられた睫毛が惑うように震えた。
無言でこの反応の意味を考えていると、ひとしきり泳いだ視線とかち合い、心配そうに眉を寄せられた。

「あの、大丈夫?」

「なにが?」

「最近、疲れた顔してるから」

虚をつかれ目を見開く。ちさきは苦笑を浮かべた。

「自覚なかったの?」

「そんな顔、してたか?」

「うん、してる。今日はもうお風呂入って、はやめに寝たら」

ほら、と背中を押され、促されるままに自室の押入れから着替えを取り出し、風呂場に向かう。
服を脱いで浴室に足を踏み入れたところで、いつもなら気にとめることもない曇った鏡が目についた。手で曇りを拭って映った自分の顔は、とくに変わりないように見える。やはり表にはでない性質らしい。それなのに、どうして祖父もちさきも見抜いてしまうのだろう。

風呂から上がると、台所の方から水音が聞こえた。そちらに向かうと、予想通りちさきが洗い物をしていた。

「ちさき、風呂上がったから」

「えっ、もう?」

振り返ったちさきは呆れたように目を丸くした。

「もっとゆっくり温まってくればよかったのに。いっつもカラスの行水なんだから」

小言を漏らしながら水切りした食器を籠に入れ、蛇口を閉める。タオルで手を拭きながら、ちさきは紡に向き直った。

「甘酒つくったんだけど、紡も飲む?」

「ああ、貰う」

土間の方に足を出してその場に腰を下ろすと、ちさきが甘酒を注いだマグカップを二つ持ってきた。はい、と片方を紡に渡し、その隣に同じように座る。
甘酒を一口飲むと、ほどよい甘さと温かさが身体の内側に沁み渡った。ちさきもマグカップに口をつけ、ふうと息をつく。

「最近、ちゃんと眠れてる?」

肯定しようとして、思い直す。ちさきに心配させてしまうほどには、身体にも影響がでていた。

「あまり、寝れてないかもしれない」

「そっか。やっぱり、色々考えちゃうよね」

飲み口を弄りながら、ちさきは眉を下げた。
気遣うように見上げてくる青い瞳を見返すと、不思議そうに瞬かれる。

「お前は?」

「えっ?」

「最近、寝れてないんじゃないか」

ちさきは息を詰め、唇を尖らせた。

「それは、今関係ないでしょ」

「関係ある」

「心配性」

「お前もだろ」

ちさきは口ごもり、拗ねたように唸った。恨みがましい目で紡を睨む。だが、譲る気のない紡の様子に、やがて根負けしてため息をついた。

「私もはやめに休むから、紡も夜更かしないでね」

「ああ」

「ちゃんと、暖かくして寝るんだよ」

「わかってる」

「布団敷かずに寝ちゃだめだよ」

「わかってるよ」

「ほんとに? 紡、たまに面倒くさがって畳の上でごろっと寝ちゃうでしょ」

「……なんで知ってるんだ」

「だって、たまにほっぺに畳の跡つけて起きてくるじゃない」

ちさきはからかうようにくすくすと笑った。
それから甘酒を一口飲んで、揺れたマグカップの中に視線を落とす。と、ちさきはまた飲み口を弄りはじめた。その指先はなにかを探っているように見える。
甘酒を飲みながらちさきの手元を眺めていると、意を決したように両手でぎゅっとマグカップを握りしめた。

「あの、私もちゃんと頼るから、紡もなにかあったら言ってね。頼りないかもしれないけど、私にできることなら、なんでもするから」

顔を上げ、ちさきはまっすぐに紡を見つめた。驚いて、口をつけていた甘酒を嚥下する。
目の前で海のような瞳が揺れていた。
惹き込まれ、無意識に手を伸ばす。力の入った肩は華奢で、小さく震えた唇はほのかに色づいていた。緩やかに波打つ髪がさらりと揺れる。あと少し、指先を伸ばすだけで触れられる。

「紡?」

戸惑うように呼ばれ、はっとして手を引き戻す。爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、浅ましい衝動を抑え込んだ。
ちさきにすべて話せたら、どんなによかっただろう。けれど、ちさきにだからこそ、今は到底伝えられるものではなく、唇を引き結んだ。

「話せる時がきたら、ちゃんと話す」

ちさきの精一杯の気持ちに返せるのは、今はこれだけだった。
一瞬、寂しげに目を伏せられる。それでも、

「わかった、待ってる」

ちさきは柔らかな微笑みを紡に向けた。
言葉の、表情の一つ一つに、ちさきからの確かな想いを感じる。それは自分がちさきに向ける想いとは違うのだろうけれど、胸を満たすものではあって、ずっとこの時間が続けばいい、と何度思ったかわからない願いが募った。その裏にある暗澹としたものに気付いていながら。
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