朝日色の指輪
いきなり段階を一段も二段も飛ばすようなことが起こったが、だからといって普段から結婚を意識していたわけではなかった。
まだ結婚しないのかとからかわれたり、汐鹿生の人たちにはもう地上に嫁にいったものとして扱われたりしたが、紡とは恋人としての関係をゆっくりと積み重ねていたと思う。卒業したらそうなるのだろうとは考えていたけれど、今はようやく実った想いを大切に育んでいきたかった。
もともと一緒に暮らしていたから、卒業して結婚したとしても、その日々が変わらずに続いていくだけだと思っていたせいもある。
その頃のちさきにとって結婚というのはそういうもので、あまり深く考えていたわけではなかった。
それが少し変わったのは、紡の母親に出会ってからだった。
看護学校の三年生になってすぐの頃、ちさきは守鏡で紡の母に呼び止められた。彼女の用件は、勇と紡の話を聞かせてほしいというものだった。勇はともかく、紡はちさきに母親と関わってほしくなさそうだったから少し悩んだが、不安そうな顔を見ていると断る気にはなれず、それからちさきは紡の母と月に一、二度ほど会って話すようになった。
ちさきから勇と紡の話を聞くうちに勇気がでたのだろう。その年の八月には勇と紡のもとに会いにきて、今では紡の長期休みの帰省に合わせて紡の父親とともに鴛大師に訪れるようになっていた。
いまだ蟠りはあるようだが、今の紡と母親の関係は悪くない。少しずついい方向に変わっていっていると思う。
ちさき自身も紡の母とはいい関係を築けているはずだ。けれど、時々思う。
紡と恋仲になっていることを、この人にどう思われているのだろうか。
紡の母は海と地上の混血であったせいで奇異の目で見られ続け、それが理由で海が嫌いになって鴛大師から出ていったと聞いている。ならば、自分の息子が海の人間と恋仲になっていることも、よくは思っていないのではないだろうか。
面と向かって反対されたことはない。だが、思うところはあるのだろうと感じることは何度かあった。そのたびに、このままでいいのだろうか、と不安が重く胸の底に溜まっていった。
「紡くん、三月いっぱいはこっちにいるつもりみたいなので、せっかくだからお花見でもと思うんですけど」
「お邪魔じゃないかしら?」
「いえ、人数が多い方が楽しいです。私も紡くんも四月からはそういうこともあまりできなくなるでしょうし」
紡の母とは今でも月一で顔を合わせていた。ようは橋渡し役だ。今回も三年の後期が終わったあとの紡の帰省時の集まりについて話し合うのが主な目的だった。
「ああ、来年は卒業ですからね。なにかと忙しくなりますよね」
「はい、だから今のうちに」
微笑するちさきにつられるように、紡の母も目を細めた。
「もうそんなに……」
感慨深そうに呟いて、紡の母は考え込むように目を伏せた。
眉を寄せて黙り込んでしまった彼女の言葉を待つ。
少しして、紡の母は躊躇いがちに顔を上げた。
「ちさきさんと紡は卒業したら……」
だが、そこで言い淀み、目を逸らされてしまった。「すみません、なんでもないです」と、誤魔化すように苦笑してコーヒーを飲むのは、出かかった言葉を呑み込むためだろうか。
引っかかりを覚えるのは、こういう時だ。もやもやとしたものがまた沈澱していく。喉が詰まって息が苦しくなった。この人と顔を合わせるたびに積み重なっていくこれは、きっと後ろめたさだ。
「……どう思われますか、私と紡くんのこと」
堪えきれず漏れ出てしまった問いに、紡の母が顔を強張らせた。
とうとう訊いてしまった。知らず知らずのうちに縋るような目になってしまう。
青みがかった黒い瞳が言葉を探すように泳ぐ。やがて、意を決したようにちさきを見据えた。
「思うところがまったくない、と言うと嘘になります。私はそれで苦労しましたから」
わかってはいたことだが、本人の口から伝えられると突き刺されたように胸が痛んだ。
やはりこのままではだめかもしれない。
そう考えはじめた時、「でも」とわずかに声が明るくなった。
「ちさきさんには感謝しています。ちさきさんがいなければ、二度と父と紡には会えなかったでしょうから。だから、紡のそばにちさきさんがいてくれてよかったと、心から思っています」
その言葉を聞いた瞬間、胸の底に溜まっていた澱が流れていくのを感じた。代わりに安堵と喜びが広がっていく。
ちゃんと認められていてよかった。
誰の許しがなくても、紡とともに生きることはできるかもしれない。でも、この人にはちゃんと認めてもらいたかった。他の誰でもない、紡の親であるこの人には。
「ありがとうございます」
美海に、灯に結婚を祝福された時のあかりも、こんな気持ちだったんじゃないだろうか。