この海で生まれた
あの人に会ったのは、祖父が倒れて一週間ほど経った、あの時が最後だった。
祖父の見舞いにもこないことに腹が立って、ここまでだったのかと失望して、自分の中でなにかが切れた。それは恐らく肉親の情とでもいうべきものだった。
海が嫌いなこと、祖父を置いて出ていったことを知ってから、話すことすら厭うようになっていたのに、まだそんなものが残っていたことにその時はじめて気付き、同時にもう元には戻らないことを思い知った。
あの時点で、あの人は自分にとって関係ない人間になったのだ。
だから、五年ぶりに守鏡であの人の姿を見かけた時は、幽霊でも見たような心地がした。そう、幽霊だ。なにかあったことをちさきに指摘された時は驚いたが、忘れてしまえば、なかったことになる存在だ。
なのに、どうして今になって現れるのか。
あの人が今更来たことにも、ちさきと会ったことにも神経が逆撫でされ、行き場のない苛立ちが胸の内で燻った。
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朝になると、ちさきも勇もいつも通りだった。それぞれ思うところはあるかもしれないが、なにも変わらない生活が続いていく。
これでいい、と紡は思った。あんなものは水面に投げ込まれた石のようなものだ。波紋はできるが、流れを変えるようなものではない。時間が経てば、なにもなかったのと同じになる。あの人のことなど、そんなものでいい。
口にすれば、ちさきはまた気に病むだろうが、紛れもない本心だった。
電話がかかってきたのは、昼食を終えた頃だった。
受話器を取ったちさきが「お母さん」と呼ぶのを聞いて、相手がちさきの母親であることを知る。うん、うん、と何度か相槌を打ち、ちさきは受話器を口元から離して振り返った。
「お母さんが、今夜うちで一緒にご飯食べないかって言うんだけど、どうする?」
汐鹿生の人々が目覚めてからは、ちさきがこの家に残ったこともあり、比良平家とは家族ぐるみの付き合いが続いていた。こうした誘いも珍しいものではない。とくに異論もなく紡と勇は頷いた。
「二人とも大丈夫だって。……うん、なにか買ってこようか? ……わかった。じゃあ、あとでね」
受話器を置き、ちさきは二人に向き直った。
「私、準備しに先に行ってるね。おじいちゃんたちは七時くらいに来て」
「買い物するなら、手伝おうか」
「いいよ、これから漁でしょ。そんなに量もないし」
そうか、と頷き、紡は漁の準備をして先に勇と家を出た。
いつものように船で沿岸を進み、漁場で網を投げる。ぬくみ雪が降らなくなってからは少しずつ海も元に戻っており、落ち込んでいた漁獲量も回復しつつあった。網にかかった魚は以前よりも多い。それを狙う海鳥たちも海上を飛び交っており、さざ波とともにさんざめいていた。
ふと、陸の方に目をやると、海沿いの道を歩くちさきが見えた。サヤマートに寄ってから、海村の家に向かうつもりなのだろう。
漁やフィールドワークで海にでている時に、陸にいるちさきを見かけることは昔からよくあった。昨日もそうだった。ちょうどこの辺りで、今とは逆、家に帰るところを見かけた。遠すぎて表情まではわからなかったが、あれはあの人と会ったあとだったのだろうか。
連鎖的に浮かんだ考えに紡は一瞬顔を顰める。不覚だった。このまま思い出さずに忘れるつもりだったのに。
早々に思考を打ち切るために、また網を投げる。
と、勇が独りごちるように呟いた。
「難儀だな、お前も」
紡は目を見張った。
祖父が察し、指摘したことは、これまで互いに触れずにきたものだった。
忘れてなにもなかったことするならば、聞こえなかったふりをすればいい。だが、そんな器用な真似はできなかった。昔からの悪い癖で、気付いた時には、ふと頭を過った疑問が口をついてでていた。
「それは、じいさんも?」
「……ああ、そうだな」
波の音にかき消されそうな声には、悔いが滲んでいるような気がした。
そのせいか、あるいは因果が逆で、それを聞いていたからそんな気がしたのか、昨夜のちさきの言葉が耳の奥でこだました。
――後悔は、してほしくないかな。私は会えなくなった時、すごく後悔したから。
揺れる水面は、あの時のちさきの瞳とよく似ていた。
******
一度家に帰って漁の道具を片付けてから、紡と勇は汐鹿生に向かった。
埠頭から海に入り、深く潜っていく。夜の海は闇に包まれていたが、青く揺れる御霊火と家々の灯りを目指せば迷うことはなかった。
遠くの方からクジラの声が聞こえてくる。降り立った海中橋を渡って、二人は汐鹿生に入った。
この場所を祖父と歩いていると、今でも時折、不思議な気分になる。地上の人間と結ばれて海村から追放された祖父と、地上の人間の血が混じっているためにエナを持たずに生まれた自分。それ故にどれだけ憧れ、焦がれても、以前は立ち入ることすら叶わなかった場所。
手に入らないとわかっていても諦めきれずにいたエナができ、汐鹿生の目覚めとともに海村の掟がなくなってからもう二年になるが、当たり前に享受するには、あの出来事は奇跡すぎた。
もう身体が覚えた道を通って、比良平家に向かう。
階段を上って辿り着いた家のインターフォンを押すと、空腹を刺激するいい匂いとともにちさきの母親が出てきた。
「いらっしゃい、勇さん、紡くん」
「お邪魔します」
靴を脱いで上がったところで、鉢に植えられた見慣れない花が目についた。緑の葉の中で赤く色づいた花は椿によく似ている。エナができてから何度も海に潜っているが、はじめて見る花だった。
つい立ち止まって眺めていると、ちさきの母親が察して説明してくれた。
「ああ、それ、海椿っていうんだけどね、この前ちさきが近所のおばあちゃんから株分けしてもらったのよ。地上で育てるのは難しいから、ここに置いてるんだけどね」
その人の話はちさきから聞いていた。趣味が合うからと、昔から母娘揃ってよくしてもらっていたらしい。
ちさきがきてから、花で彩られるようになった我が家を思い出す。母親の影響でと語っていた通り、この家にも珊瑚や海の花が至るところに飾られていた。
ちさきの母親に続いてリビングに入ると、ちさきが食卓の真ん中に置かれた鍋を見ていた。その向かいにはちさきの父親が座っている。足音で気付いたのか、こちらが声をかける前にちさきが振り返った。
「いらっしゃい。ちょうどできたところだよ」
座って座って、と促され、ちさきの父親に軽く挨拶してから席につく。ぐつぐつと煮込まれた鍋からは、玄関先まで漂っていた魚介の出汁のいい匂いがしていた。
全員席についてから、いただきます、と手を合わせて鍋をつつく。湯気が立ち昇る白味噌仕立ての鍋は温かく、潮風で冷えた身体に沁み渡った。海老や鱈と一緒に煮込まれた野菜も柔らかく、しっかりと味が染みている。窺うような視線を感じ、うまいです、と伝えると、ちさきの母親が眦を下げた。
ちさきの両親と囲む食事はいつも賑やかだ。祖父も自分もあまり口数が多い方ではないが、この人たちの話を聞くのは楽しかった。
「紡くんも料理できるんだって?」
ちさきの父親に尋ねられ、紡は頷いた。
「それなりには」
「よくちさきが自慢するんだよ。自分より紡くんの料理の方がおいしいって」
それはちさき自身の口からもよく聞く言葉だった。ちさきが料理をするようになってからはあまりつくる機会もなかったが、それでも時々紡が料理をすると、毎回のように「紡のつくったものの方がおいしい」と言われる。そのたびに紡は首を傾げたくなった。
「俺は、ちさきがつくったものの方が好きです」
本心をそのまま口にすると、ちさきの父親は「そうか。うん、そうか」と心の底から嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ちさきもずいぶんと料理がうまくなったからね」
「そうね。花嫁修業に教えてあげようと思ってたのに。いつの間にかこんなにいい相手まで見つけちゃって」
「ちょっと、お母さん、なに言って!?」
父親に同意し、からかうように続けられた母親の言葉に、ちさきは顔を赤くして慌てた。母親がおかしそうに笑い、父親はどこか複雑そうな苦笑を浮かべる。
仲のいい親子だと思う。
こんな両親の元で育ったのなら、会えなくなった時に後悔するのもわかる気がする。望んで離れたわけではないのだから、なおさらだろう。
ちさきは自分とは違うのだ。ならば、やはりこの先も後悔などすることはないだろう。