夜舟
日曜は先週と同じように昼食後に祖父を見舞い、戻りの電車でそのまま守鏡まで行くことにした。
「遅くなるようなら電話してね」とちさきに言われたが、電車が止まらない限りそれはないだろう。わかってる、とたった一言だけの返答にもその考えが滲んでいたのか、ちさきは曖昧な顔をして先に鴛大師で降りた。

電車に揺られながら、暇つぶしに持ってきた文庫本を読み進める。休日だというのに相変わらず乗客は少なく、本を読むにはちょうどよかった。
何度か停車したところで窓の向こうに視線をやると、すでに海の見えない場所まで来ていた。視界に入った駅名は守鏡の一つ前だ。切りのいいところだったので、栞をして本を閉じる。流れる景色は山間の緑からしだいに街のものに変わっていき、やがてゆっくりと止まった。

守鏡駅で降り、以前よりシャッターの増えた構内を抜けていく。待ち合わせによく利用される噴水の周りには、点々と人が立っていた。その中に母の姿を見つけ、億劫ながらも階段を降りていく。こちらに気付いた母が、紡、と声をかけてきた。

「久しぶり。元気そうでよかったわ」

ただの挨拶だ。それでも、この人にはそう見えるのかと、目を眇めた。
いくつか親らしいことを言われ、適当に生返事をする。そのうち、話題は定型文のように祖父のことに移った。

「あの、おじいちゃんはどう?」

「まあ、普通」

「普通って……。入院したって聞いたけど」

知っていたのか。
病院の方から連絡がいったのか、先日の電話で変に気を回したちさきが教えたのか。どちらにせよ、知っていながら、この人は見舞いにもこないのだ。

「気になるなら、自分の目で確かめにくれば」

怯んだように息を呑む音がした。なにか言いかけたようだが、言葉は続かず、ついには目を逸らされる。
紡は唇を噛み、もう行くから、と背を向けた。なにか言いたげな視線を感じるが、無視して歩を進める。
これ以上守鏡に用があるわけでもないが、鴛大師行の電車が出るまで一時間もある。時間を潰すため、適当にその辺を歩き回った。行くあてもない足取りは重い。いつもは気にならないはずの街の喧噪が、今はやけに煩く聞こえた。それでも風にあたっていると、少し頭が冷えてくる。

(さっきのは、半分やつあたりだったな)

もうとっくに気付いていた。今の自分はあの人と同じだ。なにが正しいかわかっていながら、感情が邪魔をして踏み出せずにいる。
祖父のことも、ちさきのことも、ただの言い訳にすぎない。本当は、自分が望んでいないだけなのだ。ちさきの幸せを願っていたはずなのに、ずっと前から胸の内に仄暗い想いが巣食っている。

ちさきが俺の前からいなくなってしまうくらいなら、シシオのやつらなど目覚めなければいい、と。

認めたくはなかった。だが、気付いた時にはもう目を逸らせないほど肥大化してしまっていた。
このままなにもせずにいたら、後悔だけが募っていくことはわかっている。だが、こんな気持ちを抱えたままの自分に、いったいなにができるというのだろう。

――今の自分が許せないからか。

かつて彼女に向けた言葉が、今になって自分に返る。ちりちりと胸の奥を炙られるような苛立ちが、自身を責め苛んだ。


******


鴛大師に帰った時には、すでに空は宵の様相を見せていた。残照に染まる西の空に明星が昇っている。太陽の浸かる海は黄昏に揺らぎ、青白い氷がひそやかに流れていた。
道なりに歩いていると、前方に海を見つめて佇む人影があった。ぶつからないように少し脇に寄り、何事もなく通り過ぎようとする。だが、しだいにはっきりと薄闇に浮かんだ横顔に紡は足を止めた。

「美海か?」

「紡?」

少し驚いたように振り向いたのは、確かに美海だった。よく見知った相手だというのにこの距離にくるまで気付けなかったのは、辺りに落ちた薄闇と、いつもは二つに結っている黒髪をほどいて背に流しているせいだろう。

「小学生が出歩く時間じゃないぞ」

紡は咎めるように言った。
なにをしているのかは問わなかった。尋ねたところで、きっとあの頃と同じ答えが返ってくるだけだろう。

「もう少ししたら、ちゃんと帰るよ」

少し顔を顰め、美海はまた海に目を向けた。
海が凪いでから、美海はいつも海を見ている。背が伸びても、髪が長くなっても、あの頃と変わらぬ瞳で光を待っている。
かつては紡も、同じように彼らが帰ってくることを純粋に願っていたはずだった。ちさきのためというのもあったが、自分自身がまた光たちに会いたかった。なのに、どうして変わってしまったのだろう。

「美海はすごいな」

「なんで?」

「ずっと変わらないから」

美海はまだ少し言葉の意味を呑み込めない顔をしていたが、やがてそれも消えて、海を、その底で眠っているはずのものを静かに見つめた。

「光は変わってないだろうから」

「そうか」

紡も海に視線を投げた。
かつては冬ですらできることのなかった氷が凪いだ水面を覆っている。その範囲は年々広がっていた。

「最近、また冷えてきたね」

独りごちるような呟きに視線を移す。そして、青みがかった黒い瞳がかすかに揺れたのを見た。それでも、その瞳はずっと前を向いていた。

(ああ、そうか)

変わりゆくものも、変わらないものも、変わりたいものも、変わりたくないものも。
きっと、どんな道を選んでも不安は常に付き纏う。それでも、迷ったままでも、前を向いて進み続ければ、いつか辿り着くべき場所が見つかるだろうか。そこがどんなものかも、今はまだわからないけれど。
宵闇が迫る中、光を宿した水平線を、その先にあるものを、紡は挑むように見据えた。


******


家の戸を引き、中に入る。玄関の鍵を閉めていると、奥からぱたぱたと足音が聞こえてきた。居間の障子に影が映り足音が止まると、障子が開かれちさきに出迎えられた。

「紡、おかえり」

「ただいま」

「ご飯できてるから、すぐ用意するね」

ちさきが踵を返して台所に向かう。その背中を紡は呼び止めた。

「ちさき、ちょっといいか? 話したいことがある」

振り返ったちさきは目を丸くした。けれど、すぐに真剣な顔になって頷き、畳の上に正座した。ちさきの前に紡も腰を下ろす。
ちさきは紡が話すのを静かに待っていた。彼女の海のような瞳に自分が映っているのを見つけて、躊躇いを覚える。そんな自分に口の端を歪め、一度目を閉じた。腹の底に力を込め、目蓋を持ち上げる。まっすぐにちさきを見つめて、紡は口を開いた。

「俺、海洋学研究科を志望しようと思う」

「それって……」

「都会の大学。どうしても、やりたいことがあるんだ」

ちさきは眉を寄せ、紡の発言の裏にあるものを考えた。少しして、眉間の皺が消えて瞳に理解が浮かぶ。

「そっか、それで悩んでたんだ」

ちさきはふっと笑みを浮かべると、胸の前で拳をつくってみせた。

「わかった。おじいちゃんのことは私に任せて。紡は余計な心配しないで、やりたいことをして」

「悪いな」

「ううん、全然。むしろ、ちょっと嬉しかった」

なんで、と尋ねかけたが、やはりやめて、そうか、と相槌を打つだけに留めた。
紡を見つめて、ちさきは眩しげに目を細めた。穏やかな優しさと、どこか寂しげななにかが伝わってきて、苦いものとない交ぜになりながら、あたたかなものが胸の内に広がる。
しばらく互いになにも言わないまま見つめ合っていたが、やがてちさきがちょっと照れたように紡の名を呼んだ。

「お互い、頑張ろうね」

「ああ」

頷くと、膝の上で組まれたちさきの白い指が目に入った。きっと無意識のその仕草は祈りにも似ている。
いつかその手をとって、ともに前に進みたい、と強く願った。
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