きっとすべては対岸の
「じいさん、今日は顔色よかったな」

「うん、このままよくなってくれるといいんだけど」

勇の見舞いを終え、二人は帰りの電車に揺られた。夕日が差し込むボックス席で向かい合い、他愛もない言葉を交わす。
しばらくして、ふいに会話が途切れた。こうした沈黙は珍しいものではない。普段なら互いに気にもとめず、またどちらともなく話しはじめるのだが、今日ばかりは勝手が違っていた。
さっきまでは頭の片隅に追いやられていた山居の頼み事が急に思い出され、落ち着かなくなる。家にまで持ち込むものではない、今すぐすませてしまうべきだと思うのに、どう切り出せばいいのかわからない。ちさきはきっかけを探して、そわそわと膝の上で何度も手を組み替えた。

「なに?」

「な、なにが?」

紡に胡乱げに問われ、ちさきは声を上擦らせた。

「さっきから、なんか言いたそうにしてるから」

確かに、少し態度に出すぎていたかもしれない。紡でなくとも、様子がおかしいことには気付くだろう。
どう答えようか迷い、ちさきは唸った。
だが、考えようによってはチャンスかもしれない。どうせ自分から切り出すなんて、最初から無理だったのだ。だったら、この流れに乗らない手はないだろう。
俯いたまま、ちさきは話し出した。

「その、クラスの子と話してた時に、紡の好みのタイプってどういう子だろうって話になって」

「それで、訊いてくるよう頼まれたのか」

「……うん」

小さく頷くと、ため息を吐く気配があった。盗み見るように窺うと、紡は気難しい顔で虚空を見つめていた。
紡もこの手の話は苦手なのだろうか。思えば、ちさきが一方的に話を聞いてもらったことはあったが、紡からそういった類の話を聞いたことはなかった。
やはり、こんな話をするのは失敗だったかもしれない。多分、これはお互いに避けてきたところに触れかねない行為だ。

「答えたくないなら、それでいいから。その子には、適当に」

「海みたいなやつ」

「えっ?」

ちさきは弾かれたように顔を上げた。

「海みたいなやつが好きだ」

深い声音で繰り返された言葉に息を呑む。紡はまっすぐにちさきを見つめていた。その瞳には何か言い知れないものが宿っていて、恐れにも似たものが胸を冷やした。
二人の間に満ちた緊張感に息苦しくなり、逃げだしたくなって目を逸らす。この空気を振り払おうと、ちさきはいつもの口調を装った。

「なんか、紡らしいね」

「そうか?」

「昔から海、好きだったし」

紡の顔を見ることができなくて、車窓の外の移ろいゆく景色を見遥かす。
今、目に映るのは、立ち並ぶ木立とその間から見える住宅街だ。その向こうにも海はあるが、トンネルを抜けて、鴛大師にでるまでは建物に遮られていて見えない。
ちさきはこの先に広がる海を思い浮かべた。あの日――四年前のおふねひきの日から凪いだ海を。大切な人たちとともに眠る海を。

紡は今も、あの頃と同じ瞳で海を見ているのだろうか。それとも、変わったのだろうか。そして、私は――。

それ以上考えてはいけない気がして、溢れそうになったものに蓋をする。代わりに、別のことを思い出した。

「そういえば、夕飯の献立決めてないんだった」

紡が不思議そうに瞬きをした。ちさきは車窓から目を離し、ゆっくりと紡を見返した。

「なにか食べたいのある?」

「なんでも」

「もう、それが一番困るの」

「……じゃあ、ぶり大根」

「わかった。それじゃ、サヤマート寄って帰らなきゃ」

電車がトンネルに入る。先ほどまで目の前にあった景色は、コンクリートの壁に覆われて見えなくなった。


******


「比良平さん」

昨日と同じように、一限が終わってすぐ山居に声をかけられた。今回は言われるまでもなく用件を悟る。ちさきは昨日の紡の答えだけを思い返した。

「訊いてきてくれた?」

山居は少し声を潜めて尋ねた。それにつられて、ちさきの声も小さくなる。

「うん。海みたいな子だって」

「なんか、わかるようなわからないような答えだね」

いまいち腑に落ちない顔で山居は腕を組んだ。
言われてみれば、そうかもしれない。なんとなくイメージは湧くが、具体性には欠ける。あまり参考になる意見ではないだろう。「訊けなかった」「答えてくれなかった」でも、大差はなかったかもしれない。だとすると、昨日の苦悩はいったいなんだったのだろうか。

「あっ」

と、突然山居が声を上げ、ちさきの瞳を覗き込んだ。
ちさきは目を丸くして、思わず後退った。

「海村の人って、みんな目が青いよね」

「う、うん。そうだけど」

「それ、前々から海みたいで綺麗だなって思ってたの」

目を細めて笑う山居に、戸惑いながらも「ありがとう」と礼を言う。
しかし、山居は「やっぱり、そうことだよね」と一人納得したように大きく頷いていて、聞いていないようだった。

「妹には諦めるように言った方がいいかな」

「どうして?」

「木原くんって、本当に好きな人とじゃなきゃ付き合わなさそうだし。それに、これから大変な受験生を煩わせるのも心苦しいし。……って、わざわざ頼んでおいて、こんなこと言ってごめんね」

「私はいいけど」

山居の妹はそれでいいのだろうか。ひとに言われたくらいで、そう簡単に諦められるものだろうか。
引っかかりは覚えたが、口をだす権利なんてなく、続く言葉は呑み込んだ。
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