聖母でも悪女でも
バスに揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺める。そこには故郷とよく似た景色が流れていた。
約2年ぶりのカントー地方は、やはり懐かしい匂いがする。多少変化はあるらしいが、街並みも人の雰囲気も数年程度では大きく変わらない。ただ、アローラ地方に慣れてしまったせいか、少し狭くなったように感じた。

アローラ地方から遠く離れたカントー地方にわざわざ渡ってきたのは、里帰りのためでも観光のためでもない。アローラ初にして現チャンピオンの仕事の一環で、セキエイ高原にあるポケモンリーグ本部に出向かなければならなかったからだ。正直、防衛戦以外のチャンピオンの仕事は面倒なことこの上ないのだが、今回は悪いことばかりでもなかった。
仕事を終えた翌日、アローラ行の船が出るまでの6時間、暇ができたからだ。それだけあれば、クチバシティからハナダシティの間を往復するくらいはできる。リーリエに会いに行ける。
会ったところでたいして時間はとれないが、せっかくカントーまで来たんだ。顔だけでも見ておきたかった。

ハナダのバス停で降り、ビッケさんから聞いた住所を目指して早足で歩く。
しばらくして辿り着いた建物は、エーテルパラダイスに比べれば随分と小さいが、それでも充分立派な豪邸だった。流石はエーテル財団、といったところか。
白い門をくぐり、玄関の横にあるインターフォンを押す。少しして、扉の向こうから軽やかな足音が聞こえてきた。
この時、俺はてっきりお手伝いさんかリーリエがでてくるものと思い込んでいた。だから次の瞬間、扉を開けて姿を現した人を見て、目を見張った。

「あら、あなたは」

「なんで、あんたが……」

そこにいたのは、エーテル財団代表ルザミーネその人だった。

なんで、この人がここにいるんだよ。
いや、リーリエがカントーに引っ越したのはこの人の治療のためなんだから、ここにいるのはなにもおかしいことではないか。けど、なんで代表が、しかも治療を要する病人が直々に出迎えてくるんだ。

「どうして、ここにいらしたの?」

「……リーリエに会いにきたんだけど」

「そう、残念ね。あの子、今は出掛けてますの」

ルザミーネ――と呼び捨てにしていいものか悩むが、一応本気で殺しにかかってきた相手に敬称をつけるのもなんか違う気がする――は、頬に手をあて小さくため息をついた。

「もう少ししたら帰ってくるかもしれませんから、よかったら中でお待ちになって」

どうすべきか、少し考える。
わざわざここまで来たんだから、時間が許すかぎりはリーリエを待ちたい。それに――。

俺は白いロングワンピースを着てヒールのない靴を履いているせいか、前に会った時よりも角のとれた雰囲気になった人を見上げた。
はじめて会った時は友好的なのにどこか嫌な感じがあって、本性を現した時はやっぱりかと思ったものだが、今目の前に立つ人からはとくに嫌な感じはしない。リーリエが懸命に看病をして、色々とたしなめていたらしいし、少しくらいは一緒にいても大丈夫だろう。

「じゃあ、そうさせてもらう」

ルザミーネに案内され、リビングに通される。
外観から予想はしていたが、庶民感など一切ない部屋だ。白い天井からぶら下がるシャンデリアは豪勢で、流石金持ちとある種の感心を覚えた。

「コーヒーと紅茶、どちらがいいかしら? それとも、エネココアにしましょうか?」

ルザミーネがカウンターキッチンに立って尋ねてくる。この人がキッチンにいるって、変な感じだな。

「コーヒーで」

「見栄張らなくてもいいのよ」

「張ってねえよ、グズマじゃあるまいし」

ルザミーネは目を丸くした。

「あの子は見栄を張ってコーヒーを飲むの?」

「ああ、本当はエネココアが好きらしい」

「そうなの。わたくし、グズマにはコーヒーばかり出してしまっていたわ」

コーヒーメーカーをセットしながら、ルザミーネは目を伏せた。

「グズマにも、申し訳ないことばかりしてしまっていたわね」

独り言のような呟きには、後悔の色が滲んでいた。
俺は目を瞬かせた。
この人でも、こんな表情で、こんな声で、なにかを語ることがあるのか。ウツロイドの神経毒に侵されていた頃からは、想像もつかない姿だ。

「なら、元気になったらグズマに会いにいってやったら? あいつ、あんたのこと結構気にしてた」

「そうね。グズマは今、ハラさんのもとで修行中だそうですわね?」

知ってたのか。リーリエに送った手紙にハウが書いていたのだろうか。あいつ、かなり長い手紙書いてたからな。

「ああ、毎日しごかれてるらしい。おかげで、前より強くなった気がする」

「そう、グズマも頑張っているのね」

ほっとしたようにルザミーネは表情を緩める。
この人はこの人で、グズマのことを心配していたんだな。罪悪感からかもしれないが、それを知ったらグズマは喜ぶだろうか。俺にはよくわからないが、あいつはこの人のことが好きだったらしいし。
だからと言って、教えてやる気はないが。多分、こういうことは当人同士で話すべきことだ。

しばらくして、ルザミーネがコーヒーカップを2つのせたトレーを持ってきた。目の前のテーブルにコーヒーカップと砂糖入りの小瓶が置かれ、テーブルを挟んでルザミーネが座る。
少し驚いたが気にしないことにして、俺は小瓶を引き寄せた。コーヒーに砂糖を一匙入れて混ぜる。そろそろいいか、とスプーンを置いたところで妙な視線に気付いた。

「なに?」

ルザミーネが眉を寄せて、じっと俺を見ている。
居心地が悪くなって身を捩ると、不思議そうにルザミーネは言った。

「あなたはわたくしを責めないの?」

俺は目を丸くした。発言の意図がまったく汲めない。

「なんで、責めなきゃいけないんだ」

「だって、わたくしはそれだけのことをしてしまったのですから」

また少し考えて、ようやく合点がいった。
2年前のことか。

「確かに、あんたがリーリエとグラジオにしたことは許せないと思ったけど、2人が許してるのに俺が責めるのも変な話だろ」

「あなたにも酷いことをしたわ」

「それもウツロイドの神経毒のせいなんだろ? ウツロイドも悪意があったわけじゃなくて、そういう生態だっただけだし、誰が悪いって話でもないだろ」

「それでも、わたくしのしたことは許されることではありません。本当にごめんなさい」

頭を下げられて、俺はむしろ困ってしまった。思い返せば確かに大変な目にあわされたが、もう怒りもなにもないから、今更謝罪なんていらないんだけど。
それでも、一応素直に受け取っておくことにして「もういいよ」と返した。
ルザミーネは顔を上げると、今度は少しだけ口元に笑みを見せ、

「それから、助けてくれてありがとう」

と言った。
また俺は困惑した。

「俺はあんたじゃなくて、リーリエを助けただけだけど」

リーリエが助けることを望んだからわざわざウルトラホールまで追いかけたが、正直あの時はウルトラホールにずっと引き籠っていてくれるなら、世界のためにもそれでいいんじゃないかと思っていたくらいだ。流石にこれを本人に言う気はないけど。

「ええ、ですから、娘を助けてくれてありがとう」

言い換えられたルザミーネの言葉に、俺は目を見張った。

「娘って言った」

「えっ?」

「前はリーリエのこともグラジオのことも、自分の子供じゃないって言ってたのに」

ルザミーネははっとしたように瞳を揺らし、つと自分の手の甲に視線を落とした。

「そうね。本当はわたくしの方こそ、母親の資格なんてなかったのに」

だが、次に顔を上げた時には、まっすぐな目で俺を見据えていた。その瞳はいつかのリーリエの瞳とよく似ていた。

「ですが、あの子たちはまだわたくしのことを母と呼んでくれます。ですから、わたくしもあの子たちの母でいようと思います」

この時、はじめてこの人がリーリエの親に見えた。すべてのポケモンを愛し救うエーテル財団の代表でもウルトラビーストに執着してアローラを混乱に陥れた悪人でもなく、強さも弱さも持ったただの人で、俺の大切な友達の大切な母親だった。

よかったな、リーリエ。

心の中で呟いて、俺はコーヒーを口にした。と、壁にかけられた時計が目に入る。針が指し示すのは帰りのバスの時間の15分前だった。もうでないと乗り遅れるな。

「悪い、もう時間だから帰る」

コーヒーを飲み干して立ち上がる。ルザミーネが残念そうな顔して、「あら、もう?」と呟いた。

「リーリエに伝言があれば、預かりますよ」

俺はちょっと考えた。
リーリエに会えたら、話したいことはたくさんあった。その中の一つくらいは伝えてもらおうかと思ったが、口をついてでた言葉はまったく違うものだった。

「じゃあ、頂上で待ってるって伝えてくれ」

「ええ、必ず」

柔らかな微笑を浮かべて頷いたルザミーネに背を向けて、外に出る。
当初の目的は果たせなかったが、俺は笑って帰路に着いた。
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