回れ観覧車
モンスターボールを模したゴンドラの扉が閉まると、喧騒はかき消え、代わりにみしみしと不安を煽る音が鳴る。
ゆっくりと離れていく地面を眺めながら、オレは椅子に腰かけた。
窓の外に広がる景色は相変わらず賑やかだ。それに比べ、ゴンドラ内は静かで、ここだけ空間が切り取られたんじゃないかと思う。普段はよく喋る同乗者が珍しく沈黙を守っているから尚更だ。
なんとはなしに向かいに座るNに視線をやり、オレはかすかに苛立った。
てっきり景色でも眺めているのかと思いきや、いつもの脚と腕を組んだポーズのまま、青にも緑にも見える瞳を閉ざしていた。
半ば無理矢理ひとを観覧車に乗せておいて、なに寝てんだ。
右手の中指を内側に丸め、親指で押さえる。
狙いは落ちた目蓋の間。帽子から零れた緑の髪がかかる眉間。
気付かれないように腕を伸ばす。
てい!
眉間をデコピンで弾くと、Nの肩が跳ねた。閉ざされていた目が見開かれる。
戸惑うように揺れる瞳に、呆れきった顔が映っていた。
「どうかした?」
「それはこっちのセリフだ。ひとを無理矢理引っ張ってきておいて、寝てんじゃねえよ」
わざとらしく嘆息してみせると、Nの顔に理解と苦笑が広がった。
「ごめん。けれど、寝ていたわけではないんだ。ただ、視覚を断った状態で円運動を感じてみたくて」
なに言ってんだ、こいつは。
呆気にとられている間に、Nは数式がうんたら力学がかんたらと早口で捲し立て始めた。
いい笑顔で話しているところ悪いが、観覧車を楽しんでいるということしか伝わってこない。
楽しんでるなら、それでいいけど。
Nの話に適当に聞き流しつつ、こっそり視線と意識を窓の外に移す。
もう頂上近くまできたようで、下にいる雑踏がほとんど点のように見えた。目線と同じ高さには、白い薄紙を重ねたみたいな、柔らかな青が続いている。
窓から差し込む春の日差しは暖かい。右から左へ通り抜けていく難解な言葉も相まって、うっかり船を漕ぎそうになる。
その時、ゴンドラが大きく揺れた。
はっとして椅子のふちを掴み、足を踏ん張る。
揺れはすぐに収まり、ゴンドラ内に静寂が戻った。
「N、大丈夫か?」
声を掛けるが、俯いたまま返事がない。
揺れた拍子に舌でも噛んだのか?
心配になって顔を覗き込むと、上機嫌だったはずの顔は絶望に似た色をしていた。
「なんということだ……」
「なにが?」
「数式が損なわれてしまった」
なに言ってんだ、こいつは。
「頼むから、オレにもわかるように言え」
「キミは気付いていないのかい?」
言われてから、違和感に気付く。
外の景色が動いてない。
「止まったのか。さっきの揺れが原因か?」
かなり老朽化が進んでいるらしいからな。こんなこともあるだろう。
なにをそんなに驚いているんだか。
「円そのものが素晴らしいのは確かだけれど、やはり観覧車は円運動があってこそだ。だのに、それが失われてしまうなんて」
この世の終わりみたいな深刻な顔で、Nは如何に円運動が観覧車に必要不可欠なものであるかを語った。
話し半分どころか10分の1も理解できてないが、多分こういうことだろう。
「つまりだ、お前にとって、動かない観覧車は炭酸のぬけたサイコソーダみたいなもんなんだな」
「いや、円運動は必要だけれど、炭酸はない方がいいよ」
なに変なことを言ってるの、とばかりにNは返した。
……そういや、こいつは炭酸が駄目だったな。
「まあ、それは横に置いておくとして。騒いだところで動くわけじゃねえんだから、落ち着けよ。待ってれば、そのうち動くだろ」
「キミが何故この状況で落ち着いていられるのか、ボクには理解しかねるよ」
その言葉、少し変えて返してやりたい。具体的言うと、『落ち着いていられる』の部分を『大騒ぎできる』に。
オレが落ち着いてるのは、目の前に大事みたいに騒ぎ立てるやつがいるからだ。こいつがチェレンみたいに冷静に対処してたら、逆に少しは騒いでいる。
なんたって、ちょっとした非常時だからな。楽しまないと損だ。ここまで大騒ぎされたら、いっそ萎えるけど。
「この後急ぎの用もないんだから、ちょっとくらい止まったっていいだろ」
「キミは観覧車のことなど、どうでもいいのかい?」
「そうは言ってねえよ。まあ、特に好きってわけでもねえけど」
オレの言葉に、Nは目を見開いた。
「そんなことを言うニンゲンがいるなんて……」
随分と前にも似たようなセリフを聞いたな。
信じられないと言いたげな視線を、遠い目でかわす。
世界には色んな考えがあるってことを、こいつも旅の中で学んだと思ってたんだが、オレの気のせいだったか。
「別にいいだろ。観覧車好きでなくても」
「そうかもしれないけれど、それなら、どうしてキミはボクに付き合って観覧車に乗ってくれるんだい?」
Nは純粋に疑問だという顔をする。
そんな気にすることでもないだろうに。この観覧車バカが。
呆れながらも一応考えてみたら、答えは簡単にでた。
「どうしてって、それは」
Nが友達だからだ。
それに、こいつが笑ってるとこを見るのは嫌いじゃない。
だが、思っただけでも顔を覆いたいくらいなのに、そんなことを言ってしまった日には、恥ずかしさで殴って逃げる。しかし、ここは観覧車。逃げ場はない。
「それは?」
「なんでもない」
我ながら苦しいとは思いつつも、ふいと目をそらす。
その時、タイミングよく外の景色が動きはじめた。
よし、これでNの意識も逸れるだろう。
「ほら、N。動いたぞ」
「そうだね。それで、さっきは何を言おうとしたんだい?」
まっすぐに見つめられ、非常に居たたまれない。この目に負けて、全て言ってしまいそうだ。
動いたんだから、オレのことなんか忘れろよ。
「ねえ」
「知らん!」
Nの帽子のつばを乱暴に掴んで、無理矢理下げる。
手の下から抗議の声が聞こえてくるが、無視だ。
観覧車が終わるまでは、Nの目を見てなるものか。
→あとがき