いつかの話
靴を脱ぎ捨て、浜に寄せる波を素足で蹴る。跳ねあがった飛沫が夕日で黄金色に輝いて海に落ちた。
春先の海はまだ少し冷たいけれど、光輝く飛沫が綺麗で、わたしは何度もぱしゃぱしゃと波を蹴った。
昔から海は好き。特に夕焼けに染まった穏やかな海が一等好き。水平線から波打ち際まであたたかな黄金色になると泣きたくなるくらい綺麗で、不思議と懐かしさと切なさで胸がいっぱいになる。

「ねえ、瑛くん」

「なに」

振り返って少し後ろで見てた瑛くんを呼ぶと、ぶっきらぼうに返された。
でも、これは素がぶっきらぼうなだけで、別に機嫌が悪いとかじゃない。瑛くんと出会って約二年、一緒に学校生活を送ったり、バイトしたり、デート――と、わたしは思っているのだけれど、きっと瑛くんに言ったら否定される――したりしているうちに、なんとなくだけれど瑛くんの人となりというものがわかってきた。だから出会ったばかりの頃と違って、このくらいではわたしも怯まない。

「瑛くんは将来の夢ってある?」

「あるよ」

「やっぱり、お店のこと?」

前に趣味を訊いた時に「店は本業にするつもりでやってる」って言ってたから、わたしはほとんど確信を持って尋ねた。
でも、瑛くんの答えはわたしの想像とは少し違っていた。

「それもあるけど、ちゃんと勉強してバリスタになりたい」

「バリスタって……」

その単語は聞いたことがある。けど、将来の夢としてはおかしいんじゃ。
だって、バリスタって、

「あの、据え置き式の大型弩砲?」

「違うよ。どうしてそうなるんだよ。つーかお前何者」

瑛くんに早口でつっこまれた。
これでも真面目なのだけれど、瑛くんにとってはボケ以外の何物でもなかったみたいだ。
うーん、これは印象を悪くしてしまったのかもしれない。今日のデートはバッチリだったのに。
そんなことで眉を下げて悩んでいたら、瑛くんがため息を吐いた。

「コーヒーの専門家。コーヒー淹れるだけじゃなくて、デザートも食器も店の装飾のことも。最高のコーヒーを飲ませるために、あらゆる知識が必要なんだ」

丁寧に説明してくれる瑛くんの顔は、なんだか楽しそう。珊瑚礁や海のことを話すときと同じいい顔をしてる。

「大変そうだね。じゃあ、大学へは進学しないの?」

「考え中。店やるなら、やっぱり経営とか、経済とかきちんと勉強しないとな」

瑛くんがあまりにも真剣に夢を語るから、わたしはだんだん自分が恥ずかしくなってきた。
考えても、自分が将来どうしたいのかが見えてこない。進学したいとは考えているけれど、それは両親の無言の希望と執行猶予を伸ばしたいからで、なにか特別な目的があるわけじゃなかった。

「お前はどうなんだよ?」

「わたしは、どうしよう……」

痛いところを突かれて、わたしは口を噤んだ。
瑛くんみたいに、好きなものを将来の夢にしてみるといいのかな。わたしの好きなもの、好きなもの……。

「瑛くんのお店で働く、とか?」

「はっ!? いや、おま、それ」

冗談めかして言ってみたら、何故か瑛くんが慌てだす。
顔がいつもより赤いのは夕日のせいだろうけど、この反応はなんのせいなんだろ。

「どういう意味だよ!」

「えっと、将来の夢が見つからなかったから、いざとなったら瑛くんのお店に従業員として雇ってもらおうかなって」

本当はそれだけじゃないけど、そっちは流石に言えない。
本心がばれないかどきどきしてたら、瑛くんは片手で顔を覆って深くため息を吐いた。

「お前な……」

「やっぱり、だめ?」

「だめっていうか、甘いんだよ」

甘いか。言い返せないや。

「本当に、将来どうしよう」

真剣に考えれば考えるほど、途方に暮れてしまう。
どうしたら、瑛くんみたいに地に足ついて将来を見据えられるようになるんだろう。わたしはまだまだ目先のことで精一杯で、何年も先のことに目を向ける余裕がない。

「お前はほんとにボンヤリだな。いっそのこと、幼稚園児みたいに可愛いお嫁さんとかにしとけ」

とうとう小さい子扱いされてしまった。瑛くんからしてみれば、わたしなんて本当に幼稚園児と大差ないんだろうな。
でも、お嫁さんか……。

「あはは! うん、それもいいかも! なんて……」

「誰のだよ?」

あれ? なんで急に不機嫌になっちゃったんだろ?
首を傾げると、「別に、どうでもいいけど」と拗ねたような口調でそっぽを向かれた。
こういう時の瑛くんはよくわからない。ただ、怒ってるわけじゃなさそうだから、あまり気にしないことにした。

「ねえ、瑛くん」

「なに」

瑛くんはまだ拗ねた顔ではあったけど、ちゃんとこっちを向いてくれた。
それだけのことが嬉しくて、自然に顔が緩む。

「将来どうなってるかはよくわからないけれど、瑛くんがマスターになったら、最初のお客さんにしてね」

「最初の客……?」

「うん。それくらいだったら、いいでしょ?」

わたしよりずっと高い位置にある褐色の瞳を見上げる。
と、その間に皺が刻まれ始めて、わたしはまた首を傾げた。

「瑛くん?」

「だめだ」

「ええ!?」

流石にこれを断られるとは思ってなくて、わたしは声を上げた。
ふらふらしてるようなやつに淹れるコーヒーはないってことなのかな? 
それとも、最初のお客さんはもう決まってるとか?

「どうして!?」

「どうしてもだ!」

「常連になるから!」

「それでもだめだ!」

結局この日は平行線のまま終わってしまって、瑛くんがどうして頑なにだめと言い続けるのかわからないままだった。
その理由を知るのは、もう少しあとになってからの話。
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