また一歩
氷室先生がいつもの厳格な口調でHRの終了を告げて教室を出ると、途端に教室中が賑やかになる。そんな中、わたしは誰もいない窓際の一番後ろの席にちらと目をやった。
(葉月くん、また午後の授業にでてなかったな)
昼休みの後、葉月くんが教室に戻ってこないことは――よくあっちゃいけないんだけど――日常茶飯事だった。
なにか特別な理由があるわけじゃない。ただ、どこかでお昼を食べた後に昼寝をして、そのまま放課後までぐっすり、ってだけ。時々は六限やHR前に戻ってくることもあるけれど、今日は梅雨明けで久しぶりに天気がいいから、気持ちのいい眠りの世界からなかなか帰ってこられないみたいだ。
それをわかっていて放っておくわけにもいかなくて、わたしは自分の机の上に鞄を置いて葉月くんを探しに向かった。
探しにといっても、葉月くんがお昼を食べる場所はだいたい決まっているから、そんなに苦労はしない。それに、昼休みに猫缶を持っていたから、今日は絶対にあそこのはず。
確信を持って足を運んだ体育館裏で猫に埋もれている葉月くんを見つけて、わたしは小さくやっぱりと呟いた。
「葉月くーん!」
歩きながら名前を呼ぶけれど、ほしい人の返事はなくて、代わりに葉月くんの足元にいた猫のお母さんがにゃあと短く鳴いた。
「猫ちゃんたち、こんにちは。ちょっと葉月くん借りてくね」
わたしは隣にしゃがんで、壁に背を預ける葉月くんの顔を覗き込んだ。葉月くんはわたしに気付いた様子なんてなく、目を閉じてすうすうと気持ちのよさそうな寝息を立てている。その膝の上では、他の子よりも少し身体の小さい子猫が幸せそうな顔をして眠っていた。
それがあまりにも可愛くて、つい見守ってしまいそうになる。けれど、そんなにゆっくりもしていられない。わたしはバイトだし、葉月くんも撮影の日のはずだ。
だめだめと頭を振ってのんびりした考えを追い出して、わたしは声を張った。
「葉月くん、起きなきゃだめだよ」
……反応なし、か。
「もしもーし、葉月くーん。今日撮影の日でしょ。また遅刻しちゃうよ」
やっぱり反応はなくて、代わりに葉月くんの膝の上で子猫があくびをした。
「あっ、ごめんね。起こしちゃったね」
子猫はみゃあと甘えるように鳴いて、てしてしと葉月くんのネクタイにじゃれだした。
それがまるで葉月くんを起こそうとしているみたいで、わたしはおかしくなって笑ってしまった。
「ありがとう、手伝ってくれるんだね」
同じ名前だから、やることも一緒なのかな。
マイペースでトロいところがそっくりだからと、葉月くんはこの子にわたしの名前をつけたらしい。たまたま葉月くんがこの子をわたしの名前で呼んでいるのを聞いた時はびっくりしたし、理由が理由だからちょっと引っかかるけれど、愛着がわくから同じ名前もいいかもしれない。
(そういえば、この子の名前を聞いちゃった時からだっけ。葉月くんがわたしのことを苗字じゃなくて、名前で呼んでくれるようになったのって)
あの後、落ち着いてから子猫だけでなく自分も名前で呼ばれていたことに気付いて、家に帰ってからも尽に「ニヤニヤしてる」と指摘されるほど浮かれてしまったからよく覚えている。
「起きて、葉月くん」
だって、嬉しかったから。葉月くんの方から距離を縮めてくれた気がして、仲良くなりたいと思っているのがわたしだけじゃないよう気がして。
「おーい、葉月くーん」
それから、わたしからも距離を縮めてみてもいいって言われた気がして。
「起きてよ……珪くん」
きっと起きないだろうからと、初めて呼んでみた名前。不思議と懐かしいような、ずっと昔にそう呼んでいたような気がするほど口には馴染んだけれど、心の方はそうもいかなくて、気恥ずかしさから自分の膝頭に視線を落とした。
はやくなった鼓動を鎮めるために深呼吸を三回。
平静を装って顔を上げると、綺麗な緑の瞳とかち合って、やっと戻った鼓動がまたはやくなる。
「お、起きてたの!?」
「いま、起きた」
声が裏返るほど慌てるわたしとは対照的に、葉月くんはいつもより少しだけのんびりした声で答えた。
(いまってことは、さっきのは聞かれてないよね)
そう信じて、わたしは剥がれた平静さを拾ってくっつけた。
「おはよう、起きてくれてよかった」
「何時だ、いま?」
「もう放課後だよ」
「……またやった」
あまり反省の見えない声音に苦笑して、わたしは立ち上がった。
「葉月くん、今日撮影でしょ? わたしもバイトだから、一緒にいかない?」
「……」
「葉月くん?」
返事のないまま見上げられて、首を傾げる。
そうして待っていると、葉月くんは眉を寄せて口を開いた。
「さっきは、名前で呼んだだろ」
「さっき、って……聞いてたの!?」
ようやく馴染んできた平静が、また剥がれてしまう。
どうして、一番起きてほしくない時に起きているんだろう。きっと、気を悪くしてしまった。穴があったら今すぐ入りたい。
「ごめん、嫌だったよね」
「そうじゃない」
焦れたように態度に、わたしは思わず縮み上がってしまった。それでも、よくよく葉月くんの言葉を反芻してみる。
嫌だったかという問いに、そうじゃないって答えるってことは、
「えっと、じゃあ、珪くんって呼んでもいいの?」
恐る恐る尋ねてみると、葉月くんはついと顔を子猫に向けてしまった。
やっぱりダメだったんだろうか。しゅんと気持ちも顔も下を向いてしまう。
けれど、
「べつに、かまわない」
「えっ、いいの!?」
「ああ」
子猫の相手をしながらだけれど、葉月くん、じゃなくて、珪くんは頷いた。
たったそれだけのことで、沈んだ気持ちが一気に浮上する。
「じゃあ、珪くん」
「なんだ」
じゃれていた子猫を地面に下ろして、珪くんはゆっくりと顔を上げた。
ちゃんと返事をしてくれたことが嬉しくて、自分でもわかるくらい口元が緩んでしまう。
「なんだよ、ニヤニヤして」
「ニコニコって言ってよ!」
今のは自分でもニヤニヤだったかなと思わなくもないけれど。
気を取り直して、わたしは珪くんに言わなきゃいけないことを告げた。
「そろそろ学校でないと、本当にお仕事遅れちゃうよ」
「あっ」
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