世界の果てで待ち焦がれた永遠
懐かしい夢を見た。
とうに諦めたはずの時間の夢を。
まだ笑い方を覚えていた頃の自分が、薄暗い森の中を走っている。あの子に聞かせてやると約束した絵本を抱えて、珍しく息を切らせていた。
頭上ではさやさやと梢が鳴っている。それに合わせて、木漏れ日がゆらゆらと踊っていた。
やがて、黒々とした影を落とす木々を抜け、開けた視界にまばゆい光が差し込んだ。
光の満ちた場所には、白い壁の教会がひそやかに佇んでいた。周りには緑が敷き詰められ、ところどころで顔を覗かせたシロツメクサが揺れている。
そして、白い花の中にあの子の後ろ姿があった。赤みがかった長い髪や白いスカートを風になびかせて、大きな瞳でじっと教会を見上げている。どこからか迷い込んだ薄紅の花びらが、彼女の周りを舞っていた。
子供特有の高い声で、あの子の名前を呼ぶ。ゆっくりと、彼女が振り返った。
「けーくん!」
見ているだけで救われるような幸せそうな笑顔で、あの子は歌うように自分の名前を口にした。
******
「葉月くん!」
目蓋を上げると、夢の中のあの子と同じ笑顔があった。
一瞬、まだ夢の中かと錯覚する。が、すぐに違うと頭を振った。目の前の少女はあの子と同じだが、違う。
長かった髪は肩につくほどしかない。手足も伸びた。舌足らずな喋りもなくなった。
違うところを探せばいくつも見つかるのに、それでも少女はあの頃と少しも変わらない。
変わったのは自分の方だ。
少女の瞳に映る自分を認めて、葉月は目を伏せた。
「おーい、二度寝しようとしてない? もう放課後だよ」
「……ああ」
机に突っ伏していた上体を起こすと、葉月の顔を覗き込んでいた少女――東雲紫は慌てて身を引いた。
東雲の後ろで歪んだ列をなす机が目に入る。その先の黒板に書かれた日付は明日のものに変わっていた。少し前にはあったであろう喧騒も今は遠い。傾いた日が濃い影をつくる教室には、葉月と東雲しか残っていないようだ。
壁にかかった時計を見やれば、終業時間はとうに過ぎている。
放課後まで眠ってしまうのはよくあることだった。今日は自分の席で寝ていただけ、まだましだろう。
「おはよう、葉月くん」
葉月が完全に覚醒したことを確認し、東雲は無邪気な笑みを浮かべて安堵する。
その微笑から目を逸らして、葉月は鞄に教科書を詰め始めた。
「ねえ、葉月くんも、もう帰るの?」
「……ああ」
「じゃあ、一緒に帰らない?」
頭上から聞こえる声は弾んでいる。見ずとも、東雲がどんな顔をしているのかは想像がついた。
恐らく、期待に満ちた顔で小首を傾げているのだろう。あの頃と同じように。
ちりと胸に小さな痛みを感じた。
「……やめとく」
視線すらくれず、葉月は抑揚のない口調で拒絶する。
「そっか。……じゃあ、また明日ね」
東雲がわずかに顔を曇らせたことに気付いてはいたが、見ないふりをして席を立った。
******
帰路に着く足取りはいつもより少し重い。その原因を葉月はすでに自覚していた。
あの頃と変わらない笑顔を向けられると、どうしようもなく自分が変わってしまったことを思い知らされる。だから、見たくなかった。だから、突き放した。
なのに、東雲が何も知らずに笑いかけてくるたびに、そしてそれを拒むたびに、胸の内に澱が溜っていく。多分、それは美しい思い出への未練だ。
幼い頃、あの教会で彼女と過ごした日々は御伽噺のようなものだった。
あの頃はまだ一人で家にいることに慣れておらず、寂しさから逃げるようにステンドグラス職人であった祖父の作品がある教会に通っていた。一人なのは変わらなかったが、静謐な教会でステンドグラスを見上げる時間は嫌いではなかった。
ドイツ人の祖父が下手な日本語で読み聞かせてくれた絵本。それを象ったステンドグラス。“お話”と同じように森の中に佇む教会。天上から零れる色とりどりの光。あの空間は御伽噺の延長だった。
そこに迷い込んできたのが、あの女の子だった。
彼女は心から泣き、怒り、そして笑った。一秒だって同じ顔をしていない。万華鏡のようにくるくると表情を変える。自分の気持ちにどこまでも正直な活力で、いつも輝いて見えた。それは葉月の知らない生き方だった。
初めて会った時から気付いていた。彼女は自分が欲しくても手に入れられないものをすべて持っている。だから、教会の姫に出会った旅の王子のように、彼女に惹かれたのかもしれない。
二人で過ごした日々はそう長くはない。けれど、短い時間の中で彼女は少しずつ輝けるものを分け与え、いとも容易く心の奥深くまで入り込んだ。それに気付いた時には、ずっと一緒にいたいと願うようになっていた。
しかし、自然の理のように別れの時は来た。
父の暮らす外国へ行くことが決まった時、葉月は反対する術を持たなかった。仮に持っていたとしても、それを行使することはなかっただろう。彼女と離れるのは嫌だったが、我儘を言って両親を困らせることもしたくなかった。
だから、彼女の手を離すしかなかった。
彼女との別れ際、“お話”を最後までしようと思えばできた。しなかったのは、彼女との物語まで終わってしまいそうな気がしたから。
無力な子供ではあったが、彼女を諦めるつもりはなかった。
再会の約束は、泣きじゃくる彼女への誓いであり、御伽噺を信じていた自分の願いだった。
王子が姫を迎えに来たように、疑いもなく叶うものだと信じていた。
遠い国にあっても、彼女を忘れたことはなかった。けれど、月日を重ねるごとに孤独の痛みは葉月を苛み、彼女が与えてくれたものを少しずつ奪っていった。残ったものは色褪せない思い出と約束くらいだ。
だからこそ、帰国が決まった時は歓喜した。編入先の学園の敷地内にあの教会があると知った時は、運命めいたものすら感じた。
あの教会に行けば、思い出は永遠になるはずだった。
しかし、教会の扉は固く閉ざされ、彼女はどこにもいなかった。
夢は惨たらしい現実に破れた。
奇跡や永遠なんてものは御伽噺にしか存在せず、御伽噺は都合のいい幻想にすぎない。
最後の願いがついえた時、葉月はすべてを諦めた。
だから、予感はなかった。
高等部の入学式の日、教会に向かったのは、現実の煩わしさからの逃避と思い出への巡礼のようなものだった。
期待など、とうの昔にやめていた。
なのに、彼女はそこにいた。
薄紅色の花弁が舞う中、肩口で切り揃えられた髪や制服のスカートを風になびかせて、大きな瞳でじっと教会を見上げて。
身体は離れていた時間を感じさせるほどに成長していたが、浮かべる表情はあの頃のままで。
まるで、そこだけ時間が止まっているかのようだった。
夢に触れる心地で葉月が足を踏み出したのと、彼女が振り返ったのは同時だった。
ぶつかり転んだ東雲に、葉月はあの頃と同じように手を差し伸べた。
しかし、東雲は葉月を覚えていなかった。
その時は痛みを覚えたが、すぐにこんなものだと自分に言い聞かせた。
仮に東雲が約束を覚えていたとしても、今更どうしようというのか。
彼女はあの頃と変わらないが、自分は変わってしまった。思い出は思い出のままにしておくべきだ。それがお互いのためだ。
けれど、どれほど遠ざけようとしても、東雲は懲りずに笑いかけてくる。
朝会えば当然のように「おはよう」と挨拶し、帰りに会えば「一緒に帰ろう」と親しげに誘ってくる。
関わらない方がいい、と周囲の人間が忠告しているのを聞いたこともあるが、東雲は一向に態度を変えない。
ここまでくると、なにか裏があるのではないかと疑ったこともある。しかし、東雲の笑顔に他意があるようには見えず、疑うことを覚えた自分を嫌悪する結果になっただけだった。
どうして今になって、彼女は自分の前に現れたのか。
彼女が差し出してくるものを、もう素直に享受することはできないのに。