“やさしい”は難しい
奈津実ちゃんと別れて自分の教室に入ったわたしは、先に登校していたクラスの友達にもチョコクッキーを渡した。その子たちからもお返しのようにチョコを貰って自分の席につき、左斜め後ろ――窓際の一番後ろの席を振り返る。
まだ誰もいない机の上には、綺麗にラッピングされた箱が片手では足りないくらい積まれていた。
予想していたことだけれど、実際にこんな漫画みたいな光景を見ると感動してしまう。それと同時に、少し不安を覚える。

わたしは机の横にかけたトートバッグに視線を落とした。この中には、あの席の主――葉月くんの分もある。友達――と言える間柄にはなっていると信じたい――だからと用意したけれど、こんなに貰うのなら、やっぱり迷惑だったかもしれない。甘い物が嫌いというわけではなさそうだけれど、かといって、いくつでも食べられるというほど大好きというわけでもなさそうだし。
それでも、あげないという選択肢を選びたくはなかった。自分勝手な願いだけれど、やっぱり葉月くんにも貰ってほしいのだ。でも、迷惑に思われるようなことをしたくないのも本当だった。

どうしようと悩んでいると、一瞬、教室内のざわめきが大きくなった。
なんだろう、と顔を上げて首を巡らすと、後ろの戸から葉月くんが入ってくるのが見えた。その手にはやっぱりリボンやレースでラッピングされた箱がある。登校途中に貰ったのか、下駄箱に入っていたのかはわからないけれど、机の上に積まれたチョコの山は氷山の一角でしかないみたいだ。
流石だとか相変わらずだなんて感嘆が周りから聞こえてくる。
そんな声なんて聞こえてないような足取りで、葉月くんはまっすぐ自分の席に向かった。でも、いつもみたいにすぐには座らず、例のチョコの山を見下ろしたまま動かない。

「おはよう、葉月くん。どうかした?」

「……ああ、お前か」

ひとまずはトートバッグの中身を忘れて、いつものように身体ごと葉月くんに向けて声をかける。
葉月くんはついとわたしに視線をくれた。それから、これ、と机の上に積まれたものを指す。

「新手の嫌がらせか?」

「違うよ! チョコだよ!」

全国の乙女を敵に回しかねない発言に、思わず声を上げてしまった。
多分わたしの声の大きさに驚いたのか、葉月くんがかすかに目を見開く。二度三度瞬きをして、訝しげに眉を寄せた。

「……どうして?」

その返答に、わたしは呆気にとられてしまった。
ああ、もしかして、ううん、もしかしなくてもこの人は――。

「今日が何の日か覚えてる?」

「……二月十四日」

葉月くんは前の黒板を見て答えた。というより、黒板に書かれていた日付を読み上げた。
それでも思い出せないのか、眉は寄せられたままだ。

「今日はバレンタインデーだよ」

「……ああ」

ようやく葉月くんの眉間から皺がとれ、その顔に理解が広がった。
自分の誕生日も忘れちゃうくらいだから、バレンタインを忘れていても不思議ではないのだけれど、まさか、このいかにもなラッピングを見ても思い出さないなんて。

「葉月くん、ここ最近みんながそわそわしてるの、気が付かなかった?」

「そうなのか」

あまり興味のなさそうな様子で、葉月くんは手に持っていた箱を机の上のチョコの山に加えた。
その時、なにかに気付いたのか、葉月くんの手が止まった。長くてほっそりとした白い指が、色とりどりのラッピングの中からチョコにしては薄すぎるセピア色を取り上げる。
それを見つめて、葉月くんは息を吐いた。

「それ、なに?」

気になって尋ねると、無言でそれを見せてくれた。
小さく折りたたまれた紙に、ベージュの紐の取っ手が二つ。取っ手の付け根のところには、ハート型のメッセージカードが貼り付けられている。
そこには、

『よければ使ってください』

愛の告白とはほど遠い、けれどある意味心の籠っている一文が、女の子らしい丸みを帯びた字で書かれていた。

「これって……」

「紙袋、だな」

葉月くんが広げてみせたそれは、やっぱり大きな紙袋だった。
バレンタインのプレゼントとしては間違っている気もするけれど、今一番葉月くんが必要としているものではあるだろう。きっとこの紙袋を贈った人は気配りがとても高いに違いない。わたしも見習わなきゃ。

葉月くんは机の上にあったチョコの山を紙袋の中に入れて、机の横にかけた。そして、ようやく椅子に座って鞄の中から教科書やノートを取り出す。いつもならそのまま机の中にしまうのだけれど、今日は何故か机の上に置いて、なにも持っていない手だけを机の中に入れた。
どうしたのだろうと首を捻っていると、青いリボンで飾られたシックな箱を掴んだ手が机の中からでてきて、なかば放り込むようにその箱を紙袋に収めた。葉月くんはそれを何度も繰り返す。
どうやら、机の中もバレンタインチョコで埋まっていたらしい。やっと終わった頃には、紙袋がいっぱいになっていた。

「やっぱり、嫌がらせか?」

「だから、違うって!」

うんざりしたようにぼやく葉月くんに、よくわからない使命感のようなものが湧いてきた。
たくさん貰って困る、なんて贅沢な悩みもわからなくはないけれど、せっかくの真心を嫌がらせととられてしまうなんて、あんまりだ。

「バレンタインは好きな人にチョコを渡す日でしょ? だから、みんな葉月くんが好きなんだよ」

「話したこともないのにか?」

「それでも、見てるだけで心が動かされることもあるでしょ」

少し間があってから、ああ、と葉月くんはわかったようなわからないような曖昧な相槌をうつ。
どうしたらわかってもらえるのだろう。
わたしは必死で言葉を続けた。

「とくに葉月くんはモデルさんだから、葉月くんの写真を見て元気を貰った人って、たくさんいると思うよ。だから、きっと、そのチョコはそのお礼」

「……お礼?」

「うん、お礼。それだけじゃないかもしれないけれど、ありがとうって気持ちは絶対に籠ってるはずだよ」

本当はもっと強い想いも込められているのだろうけど、それはわたしから伝えることではないから。わたしの言葉で伝えてはいけないことだから。
だから、今はこれだけ。わたしも同じように持っている気持ちだけ。

「そうは、考えられない?」

長い睫毛がつと伏せられた。ほとんど吐息のような、明瞭に聞こえない呟きが形のよい唇から零れる。

……だめ、かな。

気持ちが俯きかけた時、急に顔を上げた葉月くんの緑の瞳とかち合った。びっくりした心臓がセーラー服の下で跳ね上がる。
でもそれは一瞬で、葉月くんが次に発した言葉で全身の力が抜けてしまった。

「お前、ヘンなこと言うんだな」

「ヘンって、こっちは真剣なのに」

「じゃあ、気楽」

「そんなに変わらないよ……」

がっくりと肩を落とすと、くつくつと笑う声が降ってきた。
顔を上げれば、葉月くんが口元を掌で覆って肩を震わせている。

「葉月くん、もしかしてからかってる?」

「いや、べつに」

「余計ひどいよ」

もう、と口を尖らせて睨み上げる。けれど、全然きいた様子はなくて、むしろもっと笑われた。
最近になってわかったけれど、葉月くんはちょっと意地悪だ。
なのに、楽しそうに笑う顔を見ていると、簡単に絆されてしまいそうになるからやっかいだった。

「葉月くんも気楽になっちゃえばいいんだ」

わたしばかり振り回されているのが少し悔しくてそっぽを向く。
と、すっかり頭の片隅に追いやってしまっていたトートバッグが視界に入った。

……この話の流れで渡すのは、無謀だよね。
さっきの今じゃ本当に嫌がらせ扱いされかねないし、第一こんな態度をとった手前、笑顔で渡すのはまだ無理。謝るついでに、というのもありかもしれないけれど。
渡すなら、昼休み辺りかな。でも、きっと葉月くんはこれからもっと貰うだろうから、その頃には紙袋の空きもないかも。いっそのこと、紙袋だけ渡した方が喜んでもらえるんじゃ。

ぐるぐると悩んでいるうちに予鈴が聞こえて、わたしは慌てて教壇に向き直った。
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