灰色世界のパラドックス
首が痛くなるくらい上を向くと、ビルの間から雲を浮かべた青空が覗いていた。夜空は星なんかまったく見えなくて、一目で故郷のカノコタウンの空とは違うとわかったが、青空だとそこまで違うようには見えない。心なしかくすんでいるような気もするが、しばらく故郷の空を見ていないから自信がなかった。ただ、故郷の空と比べると、ずいぶんと狭いように感じる。

「空も海も全部繋がっているとはいえ、やっぱり違うもんだな」

「ジャノ」

隣を歩くジャノビーのタージャが頷く。
そういや、タージャの故郷はどんな場所なんだろう。チェレンのチャオブーとベルのフタチマルと一緒にイッシュのポケモン保護施設で産まれたとは聞いてるけど、具体的な場所は知らねえな。今度、機会があったらアララギ博士に訊いてみるか。

「……って、あんまりぼやぼやしてたら、売り切れるな。タージャ、走るぞ!」

「ジャ」

アスファルトを蹴って走り出すと、タージャも地面を滑るよう駆けた。出勤ラッシュの人混みを逆らって進んでいく。
目指すは行列ができると評判のヒウンアイスだ。
ヒウンに来たら絶対に食べようと意気込んでいたが、昨日は惜しくも目の前で売り切れてしまい、1時間に及ぶ行列待ちは徒労に終わった。流石はヒウン名物。毎日売り切れ必至の看板は伊達ではないらしい。
今日こそはと意気込んで早起きしたが、グリとシーマが朝食をとり合って喧嘩したせいで、結局微妙な時間になってしまった。急がないと、昨日の二の舞だ。
オレはさらに足を速めた。その時だった。

「だっ!?」

「きゃう!?」

なにかに躓き、たたらを踏む。なんとか持ち直したが、危なかった。

いったいなにに躓いたんだ?
さっき鳴き声がしたから、ポケモンか?

恐る恐る振り返ると、そこにはオレの胸くらいの身長の少年がいた。少年は怒った様子でオレを見上げている。
もしかして、オレは地面に倒れていた子供に躓いたのか?

「悪い、大丈夫か?」

申し訳なさと心配から子供に手を伸ばす。
と、何故かぐいっと腕を引っ掴まれた。

「ちょっ、なにすんだ!?」

子供は答えないまま、路地裏に引っ張っていこうとする。見かけによらず力が強く、振り解こうにも振り解けない。なんとかその場に踏ん張ろうとするが、抵抗虚しくズルズルと引きずられた。
なんなんだ、この子供。まさか、人目につかないところで、なにかする気じゃねえだろうな。

「タージャ、助けてくれ!」

タージャが蔓を振り、子供の手を叩こうとする。
だが、子供が叫び声を上げると、何故か蔓を収め、大人しく子供の隣を歩いた。

なんだ? 催眠術とか洗脳とか、そういう類のものか?
不安になってタージャを見つめると、心配するなとばかりに手を振られた。
いったい、なんなんだ。この子供も、タージャの態度も。

子供はどんどん路地裏の奥に向かっていく。まるで深い森のようにビルが濃く影を落とし、辺りを薄暗くしていた。
しばらく進むと、どこからか怒鳴り声が聞こえてくるようになった。どうやら子供はその声のもとに向かっているらしく、耳障りな声はどんどん近くなっていった。

何度目かの角を曲がった時、目に映ったのは大勢の不良と、そいつらに取り囲まれている細身の青年だった。
思わず物陰に隠れるオレの袖を子供がぐいぐいと引く。子供は泣きそうな顔で細身の青年を指さした。

「あの不良に絡まれてるやつ、お前の知り合いなのか?」

こくこくと子供が頷く。
口がきけないのか一言も言葉を喋らないが、ここまで状況証拠が揃えば、何故こんなところにつれてこられたのかくらい察しがついた。

「あいつを助けてほしいのか?」

子供はさらに頷く。
いつの間にか、また面倒事に巻き込まれたらしい。オレは深々とため息を吐いた。どんまい、とばかりにタージャがオレの脚をぽんと叩く。
この野郎、ひとの不幸を楽しみやがって。
だが、こんな子供を見捨てていくのも忍びない。警察を呼ぶくらいはしてやるか。

と、ライブキャスターを起動させると同時に、一際大きな怒声と鈍い音が響いた。
そっと窺うと、青年が地面に倒れていた。不良たちがさらに青年を足蹴にする。
ちっ、警察を呼んでる暇もねえか。こうなったら、

「おまわりさーん! こっちこっち!」

オレは大声で叫んだ。
不良たちが弾かれたように振り返る。ちっと舌打ちすると、オレのいる場所とは逆方向に逃げていった。あとには地面にうずくまって倒れている青年だけが残った。
古典的な手法だが、案外うまくいくもんだな。
子供が青年に駆け寄る。不良が完全に見えなくなったのを確認して、オレも青年に近寄った。

「おーい、大丈夫、か……」

青年の姿を認め、絶句する。
長く跳ねた緑の髪。モノクロのキャップ。無駄に整った青白い顔。
忘れもしない。この青年は、どこからどう見てもカラクサとシッポウで因縁つけてきたNとかいう野郎だ。
回れ右して帰りたい。だが、泣きながらNにすがる子供に気が咎める。仕方なく、オレは地面に膝をついた。
揺するな、と子供を引き剥がし、手を触れずに呼びかける。

「生きてるかー?」

一拍置いて、Nが身じろぎした。うめきながら、目蓋を持ち上げる。眼前でひらひらと手を振ってみると、数度瞬きをしてから、顔を上げた。
と、子供がオレを押しのけ、前のめりでNを覗き込んだ。

「……ゾロア?」

Nが掠れた声で呼んだ名に、こくこくと子供が頷く。
この子供、ゾロアって名前なのか。……どっかで聞いたような名前だな。いったい、どこで……。

つい記憶の糸を手繰り寄せる作業に入りかけた時、Nの腹の辺りでなにかがかすかに動いているのに気付いた。よく見ると、Nは庇うようにそれを腕に囲っているようだった。

「それ、ポケモンか?」

尋ねると、Nの瞳に剣呑な光が宿った。警戒心を露わにこっちを向く。だが、目が合った瞬間、何故かすぐに剣呑な光は消滅し、張り詰めた空気が緩んだ。

「なんだ、キミか」

Nがゆっくりと身体を起こす。
予想通り、腕には短い蝋燭のようなポケモンが抱かれていた。頭の上に灯る青白い炎は消えかかっていて、見るからに衰弱している。よく見ると、身体には無数の傷があった。あまりの痛ましさに息を呑む。
オレはパーカーを脱ぎ、アスファルトの上に敷いた。

「そいつ、ここに寝かせろ。とりあえず、手当てするから」

これまでの経験から拒否されるんじゃないかと思ったが、Nは意外にも素直にオレの言葉に従って、パーカーの上に蝋燭のようなポケモンをそっと横たえた。
ポケモンの口元に手をあてると、かすかにだが吐息を感じた。今は気絶しているだけのようだ。だが、このまま放っておけば、命に関わるかもしれない。応急処置が終わったら、すぐにポケモンセンターに連れていった方がいいだろう。

キズ薬とガーゼを取りだそうとバッグに手を伸ばすと、さっとタージャが蔓で目当てのものをだしてきてくれた。その顔は若干複雑そうだ。
多分、オレと同じ気持ちなんだろうな。
Nを助けるのは癪だが、このポケモンを見捨てるのも良心が痛むし、仕方なく手を貸してやるか、って。

「言っとくけど、半分はお前のせいだからな」

小言を言いながら受け取ると、タージャは開き直るように鼻を鳴らした。この野郎め。
その時、ゾロアとかいう子供が悲鳴を上げた。

「どうした!?」

ゾロアはわめきながら、Nにしがみついていた。宥めるようにゾロアの頭を撫でるNのこめかみから頬にかけて赤いものが一筋流れている。殴られた時に切れたのか。
出血量自体はたいしたことなさそうだが、青白い肌を伝う血の赤は鮮やかすぎて、やけにグロテスクに映った。

「落ち着け。とりあえず、これで止血しとけ」

まるで自分が怪我したかのように取り乱すゾロアに包帯を手渡し、オレはNに視線をやった。

「めまいとかはないよな?」

「とくに異常はないよ」

「なら、大丈夫か」

ゾロアが慣れない手つきでNの頭に包帯を巻きはじめたのを確認し、パーカーの上のポケモンに目を落とす。ぱっと見ただけでも、身体中の至るところに打撲傷と切り傷があった。口元や目の近くも切れていて、酷く腫れている。多分、背中側も酷いことになっているだろう。

「なんで、こんなに……」

「弱いから、だそうだよ」

吐き捨てるように呟かれた言葉に顔を上げると、Nがあの暗く冷たい目で蝋燭のようなポケモンを見下ろしていた。
どう返せばいいかわからず、目を逸らしてキズ薬をガーゼに染み込ませる。聞こえていないだろうが、一応「痛かったらごめんな」と言ってから、ガーゼで傷口を拭ってやった。その間も、Nは冷ややかに言葉を続けた。

「弱いから、ポケモンバトルで勝てなかったから、ただそれだけの理由でカレらはそのコを痛めつけたんだ。自分の無能さをそのコに転嫁して、つまらないプライドを満たしていたのだろう。矮小な存在だというのに、利己的で傲慢で……ニンゲンとは、どこまでも愚かな種族だとは思わないかい?」

Nの灰青の瞳の奥には、激しい怒りと憎しみが燃え上っていた。もしも、こいつがポケモンだったら――それこそ建国神話にでてくるようなドラゴンポケモンだったら、一瞬でこの辺り一帯を焼け野原にしていたんじゃないだろうか。
オレはその目を知っていた。だから、傷だらけのポケモンを前にしてNの言葉すべてを否定できなかった。だが、人間であるオレを信じてついてきてくれたタージャの前で――みんなの前で肯定したくもなかった。

「……人間で一纏めにするな」

「ふうん、自分は違うと言いたいのかい?」

「オレは、っていうか、オレが出会ってきたやつらは、そんなやつばかりじゃなかった。だいたい、お前はどうなんだよ。そこのゾロアってやつも」

蝋燭のようなポケモンを横向きにし、背中の傷も拭いながら反論すると、Nは嘲笑を含ませて返した。

「キミは本当になにも見えていないんだね」

「なにがだよ」

「ゾロアはポケモンだよ」

なにを言ってるんだ、こいつは。
Nの頭にきつく巻いた包帯をしきりに気にしていたゾロアが、困惑した表情を浮かべている。
いきなり気が狂ったとしか思えないことを言われたら、そうなるよな。

だが、どうも真実はオレの考えとは違っていたらしい。

「ゾロア、カレには見せても大丈夫だよ」

Nが安心させるような声音で言うと、ゾロアは頷いてその場で宙返りをした。くるくると攪拌されるようにゾロアの姿が歪んでいく。次の瞬間、とんと軽やかに地面に着地したのは、小さな子供ではなく、ふさふさの黒い体毛に覆われた小さなポケモンだった。
オレは目を剥いた。タージャも流石に目を丸くしている。
ゾロアはそんなオレたちを気にすることなく、心配そうにNにすり寄った。

そこで、ようやく思い出した。ゾロアという名をどこで聞いたのか。
昔読んだ絵本に出てきたポケモンの名前だ。人を化かす力を持っているという。
オレもタージャもまんまと化かされたらしい。
Nへの苛立ちに悔しさがプラスされる。苦々しく思いながらも再び蝋燭のようなポケモンを仰向けに寝かせ、とくに傷の深い脇腹にガーゼをあてて包帯を巻いていった。

「でも、お前は人間じゃねえか」

「ボクもニンゲンとは言い難いだろう」

Nの口振りは淡々と事実だけを述べるようなものだった。
だから、余計に傲慢に聞こえて、腹が立った。

「たかだかポケモンの声が聞こえるくらいで、自分を特別扱いしてんじゃねえよ。それとも、ゾロアみたいに化けてるのか?」

「流石にそんな能力はないが」

「じゃあ、人間だろうが。自分は違うなんて思ってんじゃねえよ。お前の言葉にお前の存在自体が矛盾してるだろ。わざわざ関係ないポケモンを庇って、そんな怪我までして、馬鹿みたいに……」

そこで一旦言葉に詰まった。
馬鹿みたいにお人よしのくせに、と言おうとしたのだが、そう称するにはこいつは人間嫌いすぎる。
代わりに、別の言葉が口をついてでた。

「お前、馬鹿みたいにポケモンが好きなんだな」

Nがわずかに目を見張った。
自分で言っておきながら、オレも驚いていた。けれど、同時にすとんと胸に落ちるものがあった。
自分がどんな顔をしているのかわからないまま、Nを見つめる。Nは丸くした目でオレを見返し、

「ああ、ボクはトモダチが大好きなんだ」

はっきりと微笑んだ。それは、いつも口元に浮かべている微笑とは違っていた。
だからだろうか。はじめて、Nという人を知った気がした。
こいつは、人間嫌いで、オレたちとは違う考えを持っているけれど、オレたちと同じポケモンが好きなただの人間なんだ。

オレはしっかりと包帯を止め、蝋燭のようなポケモンをパーカーにくるんで抱き上げた。

「それじゃ、オレはこいつをポケモンセンターにつれてくから」

「そうしてくれ」

人間嫌いとはいえ、ポケモンセンターに悪感情はないのか。
少し意外に思いながら立ち上がる。ゾロアがオレを見上げて、ぺこりと頭を下げた。トレーナーよりもよっぽど礼儀のなったポケモンだ。
どういたしまして、とゾロアに返してから、オレはNを見下ろした。

「お前も、一応病院で診てもらえよ」

それだけ言って踵を返したが、ふと思いついたことがあって、オレは振り返った。

「お前、ヒウンアイスって食べたことあるか?」

「ないけれど」

Nが訝しげに眉を寄せる。
オレはにやっと口角を上げてやった。

「せっかくヒウンに来たんだから、食ってみろよ。世界が変わるぞ」

理解し難いものを見る目を背中に受けながら、オレとタージャは薄暗い路地裏を進んでいった。
自分の方向感覚を頼りに何度か曲がると、ぱっと視界が開け、見覚えのある大通りが広がった。ここまでくれば、ポケモンセンターはすぐそこだ。
そのまま足を進めようとしたが、なんとなく気になって、路地裏の薄闇を振り返る。だが、すぐにタージャに急かされて、オレはパーカーに包まれたポケモンを抱え直し、人波を突っ切っていった。


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