返事をしてしばらく経っても一向に浴室から出てくる様子がない。まさか倒れているのではないかと心配になり、ちさきは思い切ってノックしてみた。
「紡、大丈夫?」
「あ、ああ。悪い。すぐに出るから」
焦ったような声が聞こえてきた。ちさきはほっと安堵の吐息をつく。
「別にゆっくり入っててもいいけど、溺れたりしないでよ」
「馬鹿にするな。子どもじゃないんだぞ」
「はいはい」
くすりと笑い、ちさきはリビングに戻る。雨はまだ降り続いていた。
「紡、まだかかりそうだから先にご飯にしちゃう?」
「そうだな。腹減った」
「じゃ、準備するから、その間に身体拭いてて」
紡の分の食器を出し、冷蔵庫にあった野菜炒めを盛り付ける。あとはご飯とお味噌汁があれば十分だろう。
鍋に水を張って火にかけようとしたところで、ふいに後ろから抱き締められた。ぎょっとして振り返ろうとするが、背中に顔を埋められているせいでよく見えない。ただ、腰を抱く腕の強さだけがはっきりしていた。
「つ、紡!?」
「……ごめん。少しだけこのままで」
弱々しい声が耳元に落ちてくる。何かあったのかと不安になったが、回された手が震えていることに気付いた。
「どうしたの? 具合でも悪くなった?」
「そういうわけじゃ……ただ、怖かっただけだ」
何が怖いのかわからず、ちさきは戸惑うしかなかった。
「何が?」
「お前がいなくなったら、って考えたら、すごく嫌だった。だから……」
紡の指先がそっと首筋に触れる。それだけで、ちさきの鼓動は跳ね上がった。
「……この前みたいに俺を置いてどっか行かないでくれ」
紡の声が微かに掠れた。
あの日以来、ずっと気にかけていたのだと知って、申し訳なさと愛しさがない交ぜになる。そんなことを考えさせてしまったことが悲しくもあった。
「どこへも行ったりなんかしないわよ」
「本当に?」
「本当よ」
ちさきは手を伸ばして、紡の手を握った。雨に濡れた手のひらは冷たく、まるで凍えかけているかのように思えた。
「私はここにいるよ」
そう言うと、やっと安心したように紡の腕の力が緩む。ちさきは振り向くようにして彼の顔を見上げた。
間近にある瞳は、雨雲よりも暗く濁っている。そこに映る自分の姿さえ見えそうなほど近くて、思わずちさきは目を閉じた。
唇に柔らかいものが触れる。啄ばむように何度か繰り返される口付けに心臓が爆発しそうになった。頬に添えられていた手に僅かに力が加わり、再び深くなる。
舌先を絡められ、頭の芯まで痺れていくようだった。意識を保とうとしても甘い波に押し流されていくようで何も考えられない。
「ん……ぁ……」
いつの間にか壁に押し付けられて、逃げられない体勢になっていたことに気付く。しかし、もはや逃げるつもりはなかった。むしろもっと触れていて欲しいと思う自分がいた。
「ちさ―――」
そこで唐突にインターホンが鳴った。びくりと二人の肩が揺れる。
一瞬にして現実に引き戻され、夢心地は霧散した。慌てて身を引くと、お互い真っ赤になった顔を背ける。
「誰か来たんじゃないの」
「わかってる」
「ちょっと出てくる」と言い残して紡は大股で部屋を出ていった。残されたちさきは呆然としていたが、やがて我に返るとずるずるとその場に座り込んだ。
熱を帯びたままの唇を押さえ、膝を抱える。
「なんなの……もう」
これでは落ち着いて夕飯の準備もできないではないか。
ちさきは恨めしげに空を仰いだ。
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ここまで素直に弱音を吐く紡は自分では書かないんですが、ちさきが自分の前からいなくなることを怖がっていたのは事実なので、こういう紡ちさもありですね。
ちさきは一度は紡を拒んでしまったことを気にしそうだなと思ってはいたものの、その辺の感情をどう描けばいいのかわからなくてあまり触れてこなかったのですが、「申し訳なさと愛しさがない交ぜになる」という一文が天才すぎてこれだ!と感嘆しました。この辺の感情がちさきらしくてとても好き。
その後のキスシーンは情緒たっぷりで悶えましたし、来客によって中断されてしまうのもベタですがいいですね。ずるずると座り込んじゃうちさきが可愛い。
紡が出たのはキスで赤くなったちさきの顔を他人に見られたくなかったからでしょうね。
最初の浴室のドア越しに会話してるシーンも結構好きというか、前々から自分でも書いてみたいと思っていたシチュの一つだったりします。
家族感がありつつも異性だから見ててそわそわする感じが好きなんですよね。
同じ理由で片方が着替え中にドア越しに会話するシチュも好き。
(2022/06/19)