other | ナノ

恋人との甘い時間、というのは、私と伊佐敷を囲う空間とは少しだけ異なっているように思う。

告白して、お互いを褒め合って、時には嫉妬して、悩んで、それでも全力で相手を想う。伊佐敷が好きな少女漫画や友人の話を聞いていても、その違和感は未だにある。しかしそれを別段不満には想わなかった。

「一ノ瀬」

そう言って、遠くから駆けてくる伊佐敷に手を振ってベンチから立ち上がる。吹奏楽部の練習は七時には終わるから、帰り際に少しだけ野球部のグラウンドで練習を見て帰る。いつしかそれが日課になっていたが、日課となって初期の頃から伊佐敷は練習が終わるとすぐさま着替えを済ませて私の元まで駆けてくるようになった。本人は一度も口に出した事は無いけれど、私のサックスをひったくると黙って隣を歩きだす…それが伊佐敷なりの「送ってく」という気遣いなのだという事は理解出来た。私も口にして確認する事も無く、ゆっくりと伊佐敷の隣を歩いて帰路に着く。

「決勝戦、もうすぐだね。」

「あー、そうだな。」

「ベンチで応援してる。」

おぅ、という気のない声が返ってくる。その声音からは想像出来ないくらいの気持ちが、その一言には込められている気がする。ちらりと伊佐敷の顔を盗み見ると、いつもみたいに不機嫌そうに前を見据えていた。だけどやっぱり、私にあわせてゆっくり歩いてくれるところとか、少しだけ耳が赤くなっているところとか、ぱちりと視線があうと恥ずかしそうに目をそらしてしまうところとか……そんな所作ひとつひとつから、伊佐敷に大切にされている事が伝わってくる。くすくすと忍び笑いを漏らすと、なんだよ、と不機嫌そうなお返事があった。

「ううん、なんでもない。
ただ、」

「ただ?」

その後の言葉がなかなか続かなくて、珍しく目を合わせてくれる伊佐敷の顔を見つめ返す事しか出来なかった。

ただ、これからも伊佐敷といたいなと思って。

その言葉を飲み込んで、少しだけ走って伊佐敷の前に出ると、くるりと振り返って伊佐敷、と名前を呼んでみせた。

「月が綺麗だね、伊佐敷。」

そう言って笑うと、伊佐敷は空を見上げるでも無く、私のいきなりの言葉に首を傾げるでもなく、じっと私を見つめ返して、わずかに笑った。

「そうだな。」

そんな伊佐敷の答えに笑みを深めると、また隣を歩き出す。
私たちは言葉にして「恋人」という括りに組み込んでいるわけでもないし、お互いにお互いの気持ちを伝え合ったわけでもない。ましてや、キスなんてした事も無いけど。それでもこの関係に名を与えるのであるならば、まさしく「恋」なのだと思う。
伊佐敷と約束を交わした事なんて、出逢ってこの二年半一度も無かった。それでも何となく、どこか確信的に。私達はこれからこの先も、この音のしない関係を続けているのだと思う。


「一ノ瀬。」


伊佐敷から話題を振られる機会はあまり無い。私も些細な事しか話さないし、沈黙も良くある事だが、互いにその事に不満は無いと思う。無理にその空白を埋める努力はせず、ただ隣に伊佐敷がいると感じられたらそれで良かったから。
私は何?と一拍置いて返事をすると、伊佐敷は再び歩みを止めて、私も足を止める。

「いさしき……?」

なにも話さない伊佐敷だけど、私達の間に流れる空気は変わらずゆったりとしている。
ふと、右手にじわりと伝わる熱から、伊佐敷の体温を感じる。繋がれた手は決して頑丈なものではなくて、指先だけが絡み合う程度だった。
伊佐敷の手は振ったバッドの回数を表しているみたいに固い。私のサックスをしてきただけの手よりもずっと太くて、大きくて、私はことあるごとにその手に触れていた。触れ合っていたいというのも勿論あるけど、私は伊佐敷のそんな手を気に入っている事は、多分伊佐敷も知らない。そして、こんな細くて弱い私の手を伊佐敷も好きでいてくれて、いつも内心緊張しながら握り返してくれていた事も、私は大人になるまで知らなかった。

何も発しない伊佐敷は、真剣な表情で私と向き合っていた。その瞳に射抜かれたような気分で、私も立ち尽くしている。漠然と、告白の言葉も無いまま恋人になった伊佐敷が何かを告げようとしているのを悟り、彼の左手を無意識にきゅっと握り返した。
伊佐敷はそんな私の不安を読み取ったのか、伝染したのか、いつもより上擦った小さな声で、その言葉を音にした。


「……キス…、して、いいか…」


夏の夜風に攫われそうなぐらい、か細くて、頼りない音だった。あの普段は大声が取り柄のような伊佐敷が、こんなに切なそうな声を出すなんて。何を言われても笑って返事をしようと思っていたが、不覚にも、私は今の言葉に胸を打たれてしまった。
いつも何も言わないくせに、こういうときだけ、ずるいなぁ。

「……うん、」

余裕のある表情で返そうと思っていたその返事は、伊佐敷の緊張が指先から伝わってしまったかのように、震えてしまった。それが恥ずかしくて、多分私も伊佐敷みたいに真っ赤な顔をしている。
もう半歩分、伊佐敷との距離を詰めれば、伊佐敷もそれに釣られて私の左手を手に取る。私も、今度は伊佐敷とつながった両手をゆっくりと絡ませる。全身がとくん、とくんと脈打って、今にも張り裂けそうだ。伊佐敷も多分それはおんなじで、私たちは相乗効果のようにお互いを意識し合っていた。
ゆっくりと、目を閉じる。伊佐敷と私は身長差があるから、ためらいがちに上を向いて。ふわりと漂った汗の匂いと、伊佐敷の息づかいに、上手く息が吸えなくなってしまう。伊佐敷の前髪がかかって、ひくりと肩を震わせた。













ほんの一瞬だった。想像していたリップ音もしなかった。猛烈に張り裂けそうな心臓の音とか、私よりも汗ばんだ伊佐敷の手の感触とか、そんな事ばかりが鮮明に思い出されるほどに。……それでも、伊佐敷に触れた唇の感触だけが、今でも柔らかく後を引いている。
それは未だ、甘い痛みとなって心の中をじわりと浸食して行った。







---------------------
伊佐敷は見た目に反して礼儀正しかったり、暴力はしなかったり、かなりギャップがあってど真ん中ストライクです。純愛しそうだなぁという印象からこんなお話しになりました。タイトルの日本語訳は、「純情な恋人達」
チョコとか全然関係ないんですが、バレンタインデーに捧げます。
2015/02/14