庭球 | ナノ

明るく、どこか怪しげに光るネオン。
色町として栄えたそこは、今日とて快楽を求めて様々な立場の者が闊歩していた。

男は、その通りから少し離れたところに構えるバーへ向かっていた。
地下へと続く道の先には、雰囲気のある明りに照らされたビリヤード台に、程よい音量のジャズ。今時古風な蓄音機で流されていた。
何百と並んだ酒と、カウンターの奥でいつものようにコーヒーカップを丁寧に拭いているマスター。
しかし今日は、向かいにセーラー服の女が座っていた。黒と白を基調としたその制服は、名門女学院のものであった。
男は口角をにやりと上げ、そちらへと歩みを進めた。

無口なマスターにエスプレッソ、と一言声をかけ、女の隣に自然な動作で座る。
女は知ってか知らずか、口に運んだブラックコーヒーをかちゃりと静かな音を立てて置く。
少しして、マスターが飲み物を持ってきたのを合図かのように男は静かに口を開いた。視線はくるりと回しているコーヒーカップの淵を見ていた。

「お嬢さん、聖サンタマリア女学院の生徒がどうしてここに?」

男と女の周りには少しはなれたところにいるマスターのほかに人影はない。
それが女への質問だと言うことはわかりきっている。しかし女はチラリと男を―正しくは男の後ろ髪の小さな三つ編みを―一瞥し、ゆっくりとコーヒーを口にした。
コーヒーをお皿の上に置くと、女はその小さな口を開いた。

「別に・・・余興を探しに来たのよ。
そういうそちらはどうなの?立海大付属高校仁王雅治さん。」

儚く、しかししゃがれるどころかどこか凛とした声が耳に馴染む。
男は浮かべていた微笑をさらに濃くし、喉の奥でクク、と笑むと愉快気に口を開く。

「俺の事を知っとるなんて、光栄じゃのう。」

その言葉に今度は女もその張りのある唇を綺麗に吊り上げ、さえずるように話す。

「あら、あなたはとんだ有名人よ?
相当の色魔で、既にサンタマリアの生徒も何人かはべらせてる・・・て。」

そこまでいうと、女は目を細めて男の顔を覗き見る。
絶世の美女だ。その笑った顔に男は無意識にS級、と脳内に刻み込む。

花でたとえるなら、黒い椿か。
日本人形のように綺麗に、そして自然に切りそろえられた漆黒の髪。何の色も混じらない艶のある黒は、病人のように真っ白い肌をさらに際立たせていた。
唇は薄い桃色を帯びていてその湿り気が幾人者男を惑わせたことだろう。
目は大きく、ルビーのように吸い込まれそうな深がある。中には獰猛な輝きが見え隠れしていた。
極めつけは聖サンタマリア学院の制服。普通のセーラー服よりも紺ではなく黒に近く、スカーフの色も赤、と言うよりは深緋(こきひ)色と言った方が良いかもしれない。
まるで彼女の為に作られたような制服で、「着られている」と言う印象は毛頭なかった。

男はしばし見とれていた。
その美術品のように完成度が高すぎる女の容姿に。そしてそれと同時に、この女の余裕そうな表情を乱してやりたいとも。

「はべらせているとは心外な。向こうさんから寄ってくるので相手をしたまで。
お前さんだってそうじゃ。今まで何人の男を堕とした。」

その挑戦的な男の言葉に、女は眉根を寄せる。
怒った顔も美しいが、男は柄にもなく笑った顔でいて欲しいと思った。

「あら、酷いのね。それじゃあ女は立つ瀬がないわ。
それに、それを言ってしまえば私だって貴方と同意見よ。」

そしてまた、今度は女が挑戦的な笑み。
先ほどの瞳の奥の獰猛な影は、濃くなったように思える。
男はコーヒーを口にし、お互い苦労がたえんのぅ、と、他人事の様に漏らした。

女は、男の横顔を凝視した。男は見られているのを知りつつコーヒーカップに2度目の口をつけた。
女も脳内で男を評価していた。男にしては上等の上玉だ、と。

確かにカッコイイ、とも取れるが、女はあえて隣の男を上玉、と評価するにいたった。
太陽にさらせても赤くなって終わるだろう事が分かる白い肌に、不自然のない白髪。いや、もしかしたら地が白いのかもしれない。
切れ長の目と長いまつげはむしろ女らしいと言う印象を消して美人に近づける。しかし、露出した骨格は男らしさを感じ、丁度良い均等を保っていた。
それに加え、何者も寄せ付けない色をたたえた瞳。どこか愁いを帯びている。
何よりも、仁王雅治には絶対的に素性を明かさないというミステリアスな特性がある。
一匹狼、という枠には収まらない。むしろ賢狼(けんろう)と呼んでもいいようなその立ち振る舞いには、どこか作り物・・・芸術品という印象を受けた。

「ククッ、そんなに見つめられたら照れるぜよ。」

その言葉で再び世界が戻ってくる。コーヒーは少しだけぬるくなっていた。

「それで、貴方は何をしにきたの、仁王雅治さん。」

ここで振り出しの質問に戻る。払いきれたと思っていた男は、内心女を感心しつつも避け切れないだろうと渋々ながら口を開いた。

「お前さんと同じ、唯の暇つぶしじゃよ。」

「11時よ?」

「それはお前さんにも言えることじゃけんのう。」

そして、再び沈黙が続いた。レコードから流れるジャズの音がやけに大きく聞こえる中、二人は無言でコーヒーを飲み続けていた。
しかし、この沈黙の中おとなしく静かに飲み物を飲んでいる男女ではない。
お互い計算高く、賢いがゆえに今までの会話で相手の性格、考え、力量を見据え、無言で勝算を割り出しているのだ。
どちらかが口を開いた瞬間、水面下の戦いが始まる。



そして始めに口を開いたのは―――女。

儚げな、しかし凛とした声が緩やかに男の耳朶を震わせ、ジャズに消されない聞きとりやすい音量が届く。



「――ゲームをしましょう。

まあそんなに構えなくてもいいのよ。ただのゲームなのだから。

貴方が一ヶ月以内に私を落とせたら貴方の勝ち。
逆に、私に恋をしたら負け。ね、簡単でしょう?

敗者はそうね・・・次の一ヶ月間勝者の奴隷・・・て所かしら。
もしどちらも恋に落ちなかったら、または恋に落ちてしまったらドローよ。」


――男は。

仁王は、「負けた」、と思った。
いかにして女の表情を崩そうか。そう考えてした。
しかし、女のその提案の方が、より高尚で、より甘美で、より魅力的なものに映ってしまったのだ。

仁王はまた喉の奥でかすかに笑うと、口元のほくろをニヒルに吊り上げて言葉を発する。
まるでその言葉が、さも当たり前かのように。女はにやりと華麗に微笑んだ。


「・・・乗った。」





そう、これは簡単なゲーム。
対戦相手は百戦錬磨の落とし神。

相手にとって不足はない。


暇つぶしは、これぐらいじゃないと、な。