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今年の残暑は長い事後を引いた。
九月もターニングポイントに入った晩夏に、オレは相変わらず惜しげもなく避暑地へと足を運んでいた。避暑地、というには不釣り合いになってきたその場所。もう日差しは弱まってきていて、鬱陶しく思っていた夏は、今年だけはやけに口惜しく感じる。――それもこれも、先輩に出会った事が強いのだろう。

青子にサボり過ぎだとどつかれながら、オレはことあるごとにサボる理由を探していた。
初めこそは節電という呪詛から逃げる為にサボっていたのが、今ではすっかりとサボる為にサボる理由を探している。本末転倒だ。
多分、先輩も、これからだんだんと過ごしやすくなってくれば、ここに足を運ぶ回数が減って行くのだろう。寒い時は来ないと言っていたから、冬にはここで先輩に合えない。それはお互いの単位の為にも良い事である筈なのに、オレにはなんだか、先輩との別れまでのカウントダウンに思えてしまった。
同じ学校なのだから、合おうと思えば毎日だって逢いに行ける筈なのに、まったくもっておかしな話だ。オレは"この場所で先輩に会う"事にこだわっていた。それは本能的なもので、明確な行動理念があるワケではなかった。

「や、カイト君。」

古典の授業を丸々サボった3限の時間。何時の間にかに50分が経っていたのか、休憩のチャイムが鳴り響き、先輩が顔を出した。次は紺野先生の数学だから、出ようと思っていたのを、思い直す。せっかく会えたのに、このまま先輩に別れを告げるのがどことなく惜しかった。

「こんにちは、先輩。」

いつものようなあっけらかんとした笑顔に、やっぱり頬が緩む。この人の隣は心地がいい。オレの中に生まれた、まだ淡い恋心が僅かに呼吸を乱すが、彼女の隣の何とも言えない安心感は依然として衰えない。
そろそろこの子の役目も終わりかなー?と大きい独り言を漏らす先輩の指先には虫除け当番があって、変わらずオレらを蚊から守り抜いてくれていた。(時々防げない時もあるけど)

「それ、トランプ?」

「ああ、はい。マジックの練習してて。」

ぱっと瞳を輝かせる先輩は、うずうずした様子でオレと眼を合わせる。顔には何とも分かりやすく、「観たい」と書いてある。マジックを観るときの先輩は、いつものつかみ所のない雰囲気がしない。純粋にマジックを楽しむ子どものように頬を赤く染め上げて、それがどうしようもなく可愛い。
こんな顔をする先輩を、オレの他に何人が知っているのだろう。オレだけだったら良いな。そんな事を思いながら、立ち上がって辺りを見回した。窓側に近寄らなければ、多少動きのある事をしてもバレはしないだろう。向かえの視聴覚室もこの時間は空きだからと、思い切り良く手に持っていたトランプを空中でシャッフルし始めた。


――マジックをするとき、オレは無意識下で、いつも黒羽盗一の背中を思い浮かべる。
口元に余裕のある笑みをたたえ、優しげに細められた双眸は、何処か見透かされたような感覚にも陥る。洗礼された挙動は演劇でも見ているようであるのに、そこに不自然さは存在しない。その一人の魔法使いの細い手は、息をするかのように難し気もなく、奇跡を生み出した。

親父ならどうした?オレは親父のように上手く出来るか?黒羽盗一のマジックに、近づけているか?
オレの中の親父は唯一にして最大の目標だ。目指す場所は遥か高く、眼を細めても、その頂は見えない程に。だからこそ、追うのだ。親父と同じ場所まで上り詰めて、そこに立つ。それは「黒羽快斗」の存在理由かのように、オレをつき動かす。

いつ、如何なる時も……ポーカーフェイスを忘れるな。

ああ、分かってるよ、親父。オレは、親父の所まで登り詰めてみせる。待っててくれ。そんな祈りにも似た野心が、オレのマジックの根源に存在していた。


「わぁ……っ!」

興奮気味に簡単の声を上げる先輩の表情は、無条件にオレの気分を向上させる。無邪気な表情は、公園で遊んでいるガキ相手のマジックショーとダブって見えて、思わず吹き出してしまう。おっと、いけねーいけねー。オレは今、エンターテイナーなのだった。
さーて、フィナーレはどうして驚かせてやろうか。当然ながらオレの白い相棒は忍ばせていないから、出現系は面白味に欠ける。――ああ、そうだ、あれがあった。

恭しく辞儀をすると、先輩は惜しみなく盛大な拍手を送る。流麗さを意識しながら、跪いて先輩の右手を取ると、手袋越しにその指がぴくりと反応する。覗き込むように先輩を見上げてから、その手に口づければ、その人は意外にも可愛らしく頬を染め上げた。
オレの瞳を捉える先輩は少しだけ恥ずかし気だが、幸せそうに眼を細める。

「――っ、」

その表情に見惚れてしまう思考を無理矢理マジックに引き戻し、空いている手で白薔薇を一輪、初動を悟られないように出す。

「!」

「改めまして……オレ、黒羽快斗って言います。」

これまで出し尽くしたと行ってもいい程、派手で自信のあるマジックを披露してみせたにも拘らず、先輩は輝いた瞳の奧を出し惜しみしない。最後に見せたのは、ぽん、と、花を出すだけの単調なマジック。それでも、オレが一番最初に憶えたマジックだ。
出てきた白薔薇を見た先輩は、無意識なのか、先輩の右手を取ったオレの左手をきゅっと握る。それから、緩慢な動作でその薔薇を受け取れば、今まで見た中で、一番優しく微笑んだ。

「…ありがとう、快斗君。」

その笑みは、むせ返るほどに甘く、それでいて酷く懐かしい。
ぶわ、と腹の底から沸き上がる熱いなにかに身を委ねるまま、気がつけば繋がったままの先輩の手を引き寄せて、その細い体を抱きしめていた。ふわりと香った先輩の甘い匂いに、きゅ、と胸が詰まる。

ああ、ああ。この感情を、世間はなんと呼ぶんだろう。
甘く痺れたこの心臓を鷲掴みにされたような痛みを、人はなんと名付けた?

――とれない麻痺と、じわりと染みる愛しさに、わけもなく泣きそうになった。


「――か、カイト、くん……?」

耳朶に触れる先輩の声は、困惑の色を帯びていたが、優し気だ。じくじくと心を蝕む先輩の気配の全てを漏らさぬように、そっと眼を閉じた。
あと少しだけ。
そう心で弁解しながらも、壊れないように丁重に、先輩を抱く手に力を込めた。
先輩はそんなオレの心情を知ってか知らずか、オレを引き剥がすでも抱きしめ変えずでもなく、いつまでもそのままに、オレを受け入れた。

それがなぜだか、切なくなった。