明治東亰恋伽 短編 | ナノ



彼女は今にも消えて仕舞いそうな程、儚い人だった。




「春草さんはきれいな色をしておいでですね。」

そう【言って】、若菜は静かに微笑む。
雪解けが過ぎ去り、ただ日の光を静かに当たっていたいと萌える草原。そこに寝転んで目を瞑ると、さあ、と風が草を撫でる音だけが聞こえる。夏のようにギラギラと輝いていなければ、秋や冬のように奥ゆかしくも照らない陽気を浴びて、峠から春を運ぶ風にゆっくりと身を任せているような、そんな居心地のいい空間が、彼女の周りを支配していた。
しかし当の本人は、その感覚を真に味わった事はない。

「俺は、若菜の方がきれいな色だと思うけど。」

彼女の持っているスケッチブックに、小さく返答を【書く】。
若菜は俺の字を【聞いて】、柔らかそうな髪を左右に揺らした。ほのかに赤い頬とは裏腹に、困ったように眉をたらし、しかし微笑だけは浮かべて。
彼女の瞳も、髪も、全ての色を潰してしまいそうな程艶やかで、濃い「黒」だ。それでも、彼女はきれいな色をしている。俺ははっきりとそう断言できる。彼女の絵はいつだって汚れなく、濁りの無い色なのだから。

「春草さんの絵はとても静かで、心が休まります。
もちろんその髪色も、瞳の色もそうですが、貴方のその御心がそうさせるのでしょうね。」

速筆で達筆な彼女の字を何度も読み返す。自分のという人間をそのように評価した人物は、後にも先にも彼女だけだろう。多くのものは、俺の絵を「西洋かぶれ」「質素」だと嘲笑うのに。それでも若菜は、その大きな瞳で、その小さな手で俺の作品を優しく愛でる。壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと、静かに。

「それでも、俺は若菜の方がきれいだと思う。」

実際に口に出すにしても、字に起こすにしても恥じらう台詞だ。けど、そうしないと伝わらない。彼女には一生伝える事ができない。
若菜はその文面を追って、やはり顔を赤くした。それでも静かに笑うその純粋な表情は、世の中の恐ろしい事を何も知らなそうにみえるけれど、彼女が誰よりもその対象になりやすい事を、知っている。だからこそ、何故笑っていられるのかが不思議で、それがひどく美しい、至高の存在に思えた。

「足の方は大丈夫。」

俺の記憶の中の彼女は、いつも椅子に座っていた。その膝には自作だという膝掛けが十数種類にも及ぶほど色を変えて、柄を変えて乗っていた。絵を描く事に疲れたら、裁縫をしているらしい。その姿も何度か見た事がある。
若菜は、当たり障りの無い返事を返した。

「相変わらずです。ありがとう。
春草さんの目の方は、調子はいかがですか。」

言葉の代わりに、一つうなずいてみせる。そうすると嬉しそうに微笑む若菜が、俺とは比べ物にならないスピードで字を紡いでいく。

「良かった。あれからずっと気にしていたんです。
他に何か、お変わりはないですか。」

その言葉に、俺は自然と、緩やかに微笑を浮かべる。
若菜との会話はいつも質問攻めだ。それは別に嫌ではないし、自分よりも執筆速度の遅い俺の字をわくわくと待ってくれる若菜に愛しさすら覚えていた。外の世界を知らない彼女には、俺が日本中を旅した流浪人かなにかに見えるのだろう。
俺も若菜も筆をとらず、しばらく和やかな空間が続いた。目を閉じれば、窓辺から差し込むほのかな太陽の香りや、心地の良い風、戯れる小鳥の声が聞こえてくる。彼女の周りは決まったようにいつだって静かだから、とても落ち着く。
さらさらさら、と鉛が紙を滑る音にゆっくりと目を開けた。

「私は春草さんにとって、どんな存在なのか知りたい。」

その台詞に目を見張るのは俺の番だった。水を打ったように静寂が遠ざかる。もちろん、恋慕の情を抱いている訳であるから、面と【言う】のは恥ずかしい限りである。
でも、それよりも…

「若菜は、春を駆ける風みたいだ。」

「俺はここに来るといつも、草原に寝転がって春の陽気に当てられて、風が草を揺らす音を聞いているような心地になる。」

こうして本心を打ち明ければ、若菜が寂しそうに微笑む事を、知っていた。彼女は草原の匂いも、春風が鳴らす音も、感じたことがないのだから。彼女もそれを知っていて、俺に尋ねたのだと思う。
にこにこと、寂しい笑みを浮かべる若菜。しかしやがてそれが徐々に崩壊を始めて、やがてそのきれいな瞳から悲しみがこぼれ落ちた。
ひくりと嗚咽をあげて泣く彼女を抱く権利は俺には無いかもしれない。それでも、彼女が壊れてしまわないように、そっと包み込む。ふわりと、甘い春の匂いが鼻を掠める。肩口には若菜の涙がじわりと染みて、そこから「悲しい」が溢れているように感じた。

「ごめん、若菜。」

喉を震わせて、腕の中で悲しみに耐える若菜にそう発した。
その言葉は彼女には届かなくて、それが余計胸を苦しくさせる。同時に、ああ、やはり彼女は風のようだと考えてしまう。
風に音はない。どこまでも無音で、だけど風に触れた者が音を出す。どんなに風を捕まえようとしても、するりとその手から抜け出してしまう。

ゆっくりと体を離すと、彼女は常よりもずっと不細工な笑顔で、にこりと笑った。とても笑顔とは取れないほど悲しみに潰れていたけど、それでも笑っていた。

「いつか私を、春の草野原まで攫ってくれますか。」

そう言って笑う彼女に、俺も不器用に笑い返した。








春を駆ける
(好きって言葉を)(いったい何度吐いただろう)






それから程なくして、若菜が遠いところへ越した事を大観から聞いた。彼女の部屋には、遥か遠い外の世界にある、春草(はるくさ)の絵が飾られていたと言う。

そしてその上に寝転がっていたのは、きっと。






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出してやりたくても、その手は愛する者を守るには弱すぎる。
互いの気持ちは通じあっていても、どうしようもならないことって、ありますよね。
ちなみに、明治時代に西洋風の車椅子は存在しなかったようです。