明治東亰恋伽 短編 | ナノ

 私(わたくし)が菱田さんに附いて知っている事は驚く程尠(すくな)い。菱田さんは美術學校で藝術を嗜(たしな)む書生で、大柄な御友人が居らっしゃる。然(そ)して、毎日夕七つと半刻に為(な)る頃にこの坂を通ると云う事。
 裁縫のお稽古に是(こ)のお屋敷に通う事に為って随分と経つ。一緒に習うたえちゃんやちよちゃんを始めとした女子達は矢張り年頃な訳で、ぺちゃくちゃと話題の尽きないお喋りをして居ても、一度(ひとたび)窓の外に書生の集団が通れば、途端に黙り込んで、逆上(のぼ)せた顔で青年達を見送る。然して通り過ぎたと共にお喋りを再開するのだ。

 私もそれに倣(なら)って窓の外をぼう、と眺めるが、其れよりも日暮れ時に現れる菱田さんの方がずうっと気に為っている。
 その人が菱田さん、と言う名前だということ、然して美術學校生だと云う事は、どれも情報通のたえちゃんに聞き及んだ事である。其れまで私は綺麗な緑髪の書生に附いて一つとして知れることはなかった。



 ここで一つ、私が菱田さんを気に為る要因を綴っておく事にする。先程も述べた様に、菱田さんは毎日日暮れに成るとこの屋敷の坂をゆったりと下って通り過ぎる。其れに附いての感想などは得にはない。他の女の子の様に浮き足立つ心も無いので、ただ髪色が素敵だな、眠たそうだな等と云う至って普通の感想を漏らしたと思う。
 其れが毎日起こるものだから、私は何時しか自然と日が沈む頃に成ると窓の向こうの青年を確認するように為った。観察している内に、その人は猫が大好きだと云う事を知った。興奮気味に猫の素描をして一刻が過ぎた事も在った。
 面白いお人だなと、それから日課に為った菱田さんの観察。私だけが知って居る秘密の様で嬉しくもあった。

 状況が変わったのは昨歳の冬の事だったろうか。日課になって一月に成ったと云った或る日に、何時もの様に菱田さんを眺めていると、ふと目が合った。私は突然の事で逸らすことも出来ず、唯(ただ)翡翠の眼と相対して居た。
 狼狽を隠し切れず、然(しか)し瞬きをするのも出来ずに、私は漸(やっ)との事でにこりとぎこちなく笑った。すると菱田さんは、脱帽してこちらにお辞儀を還した。水を打ったように顔を赤らめた私は、お辞儀を返すのも忘れて到頭部屋の奥に引っ込んでしまった。私が菱田さんを気に成ったのは其れからである。



 今日とて徐々(そろそろ)だろうかと、忙しなく窓の外を眺める。そう言えば昨日は少し咳き込んでいたな。悪化しては無かろうか。生姜湯でも飲んで大事にして欲しい。この間の大柄のご学友は随分と仲の良いご様子だった。私も菱田さんと気安く成りたい。
 最早病のように私の鼓動は熱を持つ。斯(こ)うしてお辞儀を繰り返して、然していつか話しかけて見たい。今日は良い天気ですね、と一言交わせるだけでも良い。彼の目に留まりたい。お声を聴きたい。笑い掛けて欲しい。どうか、どうか菱田さんと話をさせて下さい。
 春風を部屋に呼び込むように窓を開けると、丁度菱田さんは坂を下ってきたところだった。其のお姿から目が離せなくなると、悪戯(いたずら)に風は左手に持っていた愛紐(リボン)を攫った。

「あっ……!」

 其れは軽やかに空を舞い、菱田さんの処まで降りて行った。菱田さんは地を蹴って其の赤い紐を掴むと、私へと視線を交わした。赤面した顔を正す事も出来ず、私は慌てて戸口まで駆けて行った。
 お屋敷の高い塀の向こうには私の愛紐を持った菱田さんが立って居て、私は小走りで駆け寄ってその戸を三寸程開けた。

「これ、貴方の?」

 大人に成り切らないけれど、落ち着いた、研ぎ澄まされた刀のような声。低く耳朶に触れる音は心地よく響き、私は耳まで朱色に上気させた顔を何度も縦に振った。震える手で愛紐を受け取ると、何かお礼を言わなくてはと云う内心とは裏腹に、その口はぱくぱくと開いては閉じてを繰り返していた。
 菱田さんはこちらをじっと見つめるものだから、気附かず徐々にこうべを垂れる。頭の中は真っ白で、如何にかこの人を留める方法を模索するも、何も浮かびそうにない。

 「……いつもつけているそのリボンは、貴方に良く似合う。」

 その言葉は私を一瞬の内に舞い上がらせるのに、充分だった。勢い良く顔を上げるも、其処にはいつもの菱田さんの凛としたお顔が近くに在って、くらりと眩暈を覺える。
 然し其れは長くは続かず、彼は少しだけ帽子を下げて軽く会釈をすると、じゃあと一言おっしゃって坂を降りてしまった。

「っ……、あの、もし!」

 お屋敷から一歩外へと踏み出して、坂の真ん中まで出る。茹でダコの様に火照った顔で、今出来る精一杯の微笑で笑んでみせた。

「お、お大事に。」

 やっとの事で吐き出しは言葉は其れで、またかあ、と顔を熱で染め上げる。然し菱田さんは、その言葉を聞いて少しの間を空けて、少しだけ口の端を持ち上げてみせた。微笑みと呼ぶには不十分な笑い方は、私の胸を締め附けるのには充分の威力であっただろう。

「ありがとう。」

 去って行く菱田さんの後ろ姿を、辺りが暗く為ってしまった事に気附くまで眺めていた。





愛紐





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恋にも満たない、淡い慕情。
今回は森鴎外の「雁」という作品を題材にしています。良ければチェックしてみてください。
やはり近代文学は漢字が難しいし、表現が今と少しずつ違っているので、読みづらくもありますが面白いです。慣れれば支障ないですしね。
近代文学はモグリと言われても文句言えないほど勉強不足ですが、ここまでお読みいただきありがとうございました。