ぼんやりと見つめる先は、凍えながら見てきた、四方を覆う岩ではなく。
各所、あまりデザインの変わらない宿泊施設でもなく。
ましてや、長年空け続けた…けれど馴親しんだ実家でもなく。

そこは、僅かな温かみはあるものの、どこか寂しくて。
静かで、己の存在をあやふやにしそうな空間だった。



青色少年少女



まだ覚醒しきらない頭で、サトシはゆっくりと起き上がった。ぼりぼりと頭を掻いて、辺りを巡視すると、目を閉じながらゆっくりと息を吐いた。

ここはハナダシティにあるハナダジム。今、その運営者、関係者でなければ入れないであろう区間にサトシはいる。
昨日。
焦燥に駆られ、詰め行った場所は昔の仲間のところ。
想いの濁流に呑まれて二人泣いた夜。
泣き疲れ、眠った彼女、カスミをベッドへと寝かせ、自分は何も言わず出てきたマサラの家を気にして帰ろうと、カスミの姉たちに声を掛けたが、夜ももう遅いと半ば強制的に泊まることになった。
来客用の部屋だからかシンプルなデザインの簡素な時計に目をやると、時刻は午前六時を指していた。
時間帯と周りの静けさを考えると、まだ誰も起きていないかもしれない。そう思ったサトシは、再びベッドへと倒れるように横になった。振動や物音で傍にいたピカチュウが目を覚ましたのに気付きながら。
そして。チッチッと規制正しい針の時計音に、思考の海に落ちていった。

ほとんどが勢いだった。
カスミの名前を言った途端、焦燥が走っただけ。いてもたってもいられなくなっただけ。来てどうするかなんて考えていなかった。ただ一目会って元気な姿を確認したかっただけだった。
それが、彼女が自分を責め、塞ぎ込み、泣き戒めるから。
衝動が襲ったんだ。
初めて感じた、あの焦がれるような衝動。何かに突き動かされるように、彼女の泣き顔に吸い寄せられるように、その唇を塞いだ。
それが何故だかわからない。
何故衝動が襲ったのかがわからない。
一般的に、自分が知る限りでは、キスというのは特別な相手にする愛情表現の一つだったはずだ。
それを自分がカスミにしてしまったことが、驚きでならない。

俺はカスミが好きなのか?
あの時はなんだか無我夢中で、だからそんな…。
というか、カスミの気持ちだってあるよな。あんないきなり…あ゛ーどんな顔して会えばいいんだ!

元々、考えるより行動派のサトシは、脳内に広がった感情や理論を処理できずに、もどかしさから、自分の頭をワシャワシャと掻き回した。
唸ること十秒。
ピタリと止まると、頭から顔に移動していた手をダラリと下ろした。

こんなことしててもしょうがない。
もしあのキスが嫌だったのなら、とことん謝ろう。許してもらえないかもしんないけど…。
それに、何時までもここに居座っているわけにはいかないよな。良いって言われたからって、招かれた客なわけじゃないし。
そう結論づけて、サトシは気だるさの残る体を再び起こし、ピカチュウの頭を撫でた後、部屋の扉を開けた。

「「あ…」」
同時に右隣の扉が開き、寝癖がついたオレンジの髪をそのままに、彼女が顔を覗かせる。
その目元は赤く腫れぼったい。
それを自覚しているのか、サトシと目が合ったカスミは隠すように顔を落とした。
「あ、あ…と、その…」
「…はよ」
「あ……おはよ…」
意気込んではいたが、それでもいきなりすぎて、本当は軽く混乱していたと言ってもいい。
けれど自分以上に気まずく、焦ったようなカスミにサトシは落ち着きを取り戻し、物腰柔らかな声色で挨拶を交わした。
しばしの沈黙の後。
「とりあえずお姉さんのとこに行かないか?」
「う、うん」
促して、揃ってリビングへと足を踏み入れた。
「カスミちゃん!」
リビングには既に、三人の姉たちが揃っていた。サトシとカスミ、二人に気づいた長女のサクラが涙ながらにカスミに抱きつく。
「も〜心配したのよカスミちゃ〜ん。大丈夫?具合悪い所なぁい?」
「うん。ごめんなさいサクラ姉さん…あたし……」

ぐ〜〜〜

「「「「「…………」」」」」
突如、姉妹二人の話に不躾に入ってきた一つの音。周囲にもハッキリと聞こえる大きさに、会話という唯一の音も静まり返った。
発音源に集中する視線の数々。
その先には、姉サクラに苦悶の表情で何かを言い掛けていたオレンジ色。
徐々に朱に染まる頬。
「……っはははは!あんた凄い音!」
「っ…ボタン姉!!しょ、しょうがないでしょ!」
「サクラ姉さん、何か作ってあげなよ。カスミ全然食べてないから…」
「あ、そうだったわね。ちょっと待ってねカスミちゃん、今作るから」
「いいわよサクラ姉さん、自分で出来るから!」
「カスミ!」
「…?何アヤメ姉。」
「いいからあんたは座ってなさい」
「でも…」
「座ってなさい」
「……う、ん」
「サトシ君も座って」
「え?」
「食べるでしょ?朝ご飯」
「…………。はい、頂きます。」
馴染んだ姉妹のやり取りを横で傍観していたサトシに、アヤメは声をかけた。その目は何か強い訴えを感じる。
昨夜のアヤメの去り際の表情を思い出したサトシは、一つ頷くと椅子を引いて座った。

「にしても良かったわ〜。カスミちゃん何があったのか教えてもくれないし、一生出てこないのかと思ったわぁ」
「だからごめんって。」
「ごめんじゃないでしょー。サクラ姉さん、あんたのこと心配して夜も寝付けなかったのよ」
「あらボタン、あなた知ってたの?」
「当たり前よ。毎日毎日ここの電気ついてりゃ」
「ボタンも心配してたのね」
「な、なんであたしがカスミの心配するのよ」
「だってあなたも起きてたんでしょ?毎日電気が付いてるの知ってるんだから」
「あっあたしは!トイレに行った時にたまたまっ!」
「まぁまぁそれはいいじゃない」
「…で?カスミ、あんたはなんであんなことになったのかしら?」
「…それは」
「俺のせいなんです」
「サトシ君の?」
「俺がカスミに心配かけて、それで「違うの!サトシのせいじゃなくてあたしがっ!」
「あーはいはい。わかったもう良いわ」
お互いがお互いの会話を遮るように言葉を紡ぐ。その様子にアヤメはうんざり呆れたように息を吐いた。
「とりあえず。カスミ、体調の方はどう?病院、行く?」
「ううん、そんなにたいしたことないから大丈夫」
「そ。じゃ、これでジムも元通り。明日からでいいから、あんたが管理してよね」
「あ、そのことなんだけど…」
「ん?何?」
「もう少しだけお願いしていい?」
「えぇー!?なんでよ!」
「実は俺た「サトシの!…サトシのママさんに会おうと思って。マサラに行きたいの」
昨夜のやり取りをサトシが口にしようとした時、遮るようにカスミが声を被せた。
それにサトシは驚く。
何か言ってはマズいことでもあったのだろうか。
言いにくいのは分かる。
それが自分の言葉を切った原因なら良いが、他に意図することがあったのであれば…。
その時、一抹の不安がサトシの胸に微かに過ぎったのだった。



「気をつけてねぇ〜」
「早く帰ってくんのよー」
ジム扉口で見送るサクラたちに手を振って、カスミはサトシ、ピカチュウと共にハナダを後にした。
「………」
「………」
ハナダを離れて暫く。
二人の間に会話は無く、お互い黙ったままだった。
その、どことなく気まずい雰囲気にサトシは口を開けないでいた。
いくつか聞きたいことがあるのに。その返答次第では、謝らなければならないこともあるかもしれない。

ちらりと隣を盗み見れば、真っ直ぐ前を見据えるカスミがいて。
自分だけが意識しすぎているだけなのかと、首を傾げそうになりながら、その一方で、その横顔に胸がキュッと甘く締めつけられていた。
視線を逸らして心臓に手をやる。なんでこんな気持ちになるんだと不思議に思い、急にふとキスを交わした時のカスミの姿が脳内を過ぎ去った。
瞬間、壮絶な照れや申し訳無さに襲われ、顔が熱くなる。誤魔化すかのように後ろ頭をガシガシと掻いたサトシと、傍から見れば奇怪な動きのそれに全く気付きもしないカスミに、後に続くピカチュウは不思議そうに首を傾げた。


「はぁ…。とうとう来てしまったのね、この時が」
「まだ苦手なのか」
「苦手じゃないわよ!嫌い!キ・ラ・イ・な・の!」
ムシはムシなのよーー!と声高らかに叫ぶ彼女の前には鬱蒼と茂る木々たち。
通称トキワの森。
草木の比率か、それとも環境の適合か。虫ポケモンが多量に生息する、森。
その虫ポケモンが嫌いなカスミ。
だが、しょうがない。ここを抜けるか、もしくは長く長い遠回りをしなければ、マサラに行くことができないのだから。
「ほら、早く行くぞ」
「ちょっと待って!今、心の準備してるとこなんだから」
諦め悪く喚くカスミを見て、サトシに赤い影がチラついた。
逞しい身体。灯る灼熱の炎。誇り高い咆哮。
信頼できる強さを持つあの…。
「っ……!」
思わずその姿を形作りそうになって、はっと我に返った。
首をブンブンと激しく横に振って、考えを打ち消す。

長い間、悩み想っておきながら、こういう時だけ無かったことにするのか。
自分は何のために今まで…。
頭の奥で、もう一人の自分が囁く。
自嘲の笑みを浮かべた後、一歩前に進んだサトシは振り返り、カスミに手を差し述べた。
「ほら、大丈夫だって」
「ピカチュピ!」
「……うん」
僕が守ってあげるよ!とでも言うように胸を叩いたピカチュウに、その頼もしさから幾分恐怖が和らいだカスミは、表情を緩めると、大人しくサトシの手を取った。


「た、ただいま」
そろりと自宅の玄関扉を閉める。悪さをして、バレた時の子供のような心境だ。
サトシがそんな自分に苦笑をしていると、バタバタと音を立てて、切羽詰まったような表情の母ハナコが現れた。
小さな声だったはずなのに。
その反応、その表情にハッと気づく。
母は怖れたのだと。
漸く帰ってきた息子がいきなり家を飛び出し、連絡もなく一日帰ってこなかった。もしかしたら、また出て行ったのではないかと不安に思ったのかもしれない。
体が勝手に動いたからといって、自分のした軽率な行動にギリッと胸が軋んだ。
「あ、ご…ごめん。実はカスミんとこ行ってて…」
「え…?」
「ママさん」
「あ、カスミちゃん」
そこで漸くカスミの存在に気づいたハナコは、気が抜けたような息をひっそりと吐いた。
「ところで母さん、タケシは?」
「あ、タケシ君なら」
「俺ならここだ」
「タケシ!ご、ごめん。その…」
「カスミ、久しぶり」
「え?あ、久しぶり」
ちらりとカスミはサトシを盗み見た。
案の定、複雑な顔をしている。それもそうだろう。謝罪を口にしたサトシを無視して、カスミに声をかけたのだから。カスミがどうしたものかと迷っていると、のんびりとした声が入った。
「カスミちゃん上がって?お茶入れるわ」
はっとしたカスミがハナコを見ると、先ほどの切羽詰まった表情が嘘のように、いつもの明るい顔を向けていた。
「あ、はい!」
促されるままにカスミはハナコについていく。その後ろをさも当然のようにピカチュウがしっかりついていくのを、残された男二人は見逃さなかった。

「昨日ハナダにいたのか」
「あ、あぁ。カスミ…気になって」
「カスミ、どうかしたのか?」
「え!?い、いや、別に」
「サトシ。カスミがどうかしたのか?」
「………。なんか俺のせいで、ちょっと落ち込んでたみたいなんだ。ずっと部屋に籠もりっぱなしだったらしくて、ちょっと気分転換だって」
「ふーん」
納得したのかしてないのか曖昧な返事をするタケシに、余計な事を言うのはやめておこうと、サトシは「俺もお茶でも飲むかなぁ。」とその脇をすり抜けようとした。

「ところでサトシ。カスミとなんかあったのか?」

ズデーン!
前置きもないまま、自然に問いかけられた内容に、見事床に鼻を打ちつけ、痛みに唸ることコンマ数秒。
次にサトシを襲ったのは焦りだった。
「は!?何がだよ!何かってなんだよ!」
「それを聞いてるんだが…。気のせいか、お前たちのこう…雰囲気というか距離感がなんか違うような…。特にサトシ」
「お、俺!?」
距離感に関しては、さすがと言って良いのだろうか。鋭い洞察力に冷や汗をたらす。だが強調された「俺」には首を傾げるしかない。自分の中では、カスミに接している態度は変わらないのはずなのだが。もしそれが本当だとしても、カスミだってそうじゃないのか。カスミがどう思っていようと、そういう「事実」があったのに変わりはないのだから、自分ばかりが強調されることに疑問が隠せないのはしょうがない。
「全然!?普通だよ!」
妙に上擦った声が出た。
「……。まぁ、そういうことにしておこう」
「タケシ!?」
ハハハと楽しげな声が恨めしい。睨むも、その姿はリビングへと消えた。
しばらく見つめていたサトシは、溜め息を一つ吐くと、足取りゆっくりにリビングのドアを開けた。




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