君の名を呼ぶ
2
喉の奥が締め付けられたみたいになって声がでなかった。
頭の中に浮かんだのは付き合い始めの頃の静かに笑う颯太の顔と、記憶を失って無邪気に笑う颯太の顔両方だった。
唇を二度三度戦慄かせるが言葉にはならない。
勿論、記憶が戻ったほうが言いに決まってる。
それは分かっているのにそう伝えられなかった。
「別に言葉が話せない訳でも、生活に支障があるほど退行してるんじゃないなら、家事でも仕事でも教えて記憶が残ってなかろうが大人にすればいいんじゃねーの」
南野は簡単に言うが、医者からも焦るなと言われているしすぐには無理だろう。
逃げ出したくないといえば嘘になるし、だからといって颯太を手放したいかと言われればそれは嫌なのだ。
まるで子供の我侭だと自覚はある。
けれど今の自分には選ぶことはできないし、そもそも選んだところでそう都合よく颯太の記憶が失われたままだったり戻ったりするはずが無いことも知っていた。
「普通の恋人同士でいたかっただけなんだけどな」
呟いて、追加で頼んだグレープフルーツサワーを飲んだ。
「普通の恋人同士は浮気なんてしねーだろ」
南野は煙草に火をつけた。
ふうと吹き出した煙は壁のように俺と南野の間を立ち上る。
「あいつ泣いてたぞ」
もう一度先ほどと同じことを南野は言った。
そのときに感じたのは申し訳ないとかそういった感情じゃなくて、ああ、南野にはなんでも話せたんだなだった。
気分転換のつもりで来たのに、あまり盛り上がりもせず楽しくもなく帰路に着いた。
◆
そのまま寝て起きて朝飯も昼飯も食べる気になれずそのまま颯太を迎えに行く時間になった。
病室の前まで着いて中を覗く。
颯太は一人でベッドに座っていた。
その顔は、子供の無邪気な顔ではなく、一瞬記憶が戻ったのかと思うくらい大人の顔で無表情だった。
「そう、た……」
名を呼んだのは、ほぼ無意識だった。
その声に気がついてこちらをみた颯太の顔が破顔した。
花がほころぶ様に笑う颯太は可愛らしかった。
俺の前でだけニコニコと笑うならそれでいいのではないか。
ずっと、俺の前でだけ笑って、俺のためだけに泣いて欲しいそう願っていたことを思い出す。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
はにかんだ笑顔も可愛い。
ベッドのふちに座った颯太は足をゆらゆら揺らす。
それが子供っぽくて、記憶が戻っていないことを確信する。
颯太の子供時代はこんな感じだったのだろうか。
そういえば、かれの子供時代のことは何も知らないことに気がつく。
受付で名前を告げていたため、医師はすぐに病室へ来た。
「検査の結果はどうでしたか?」
俺が切り出すとすぐに「脳に異常所見は見られませんでした」と返ってくる。
心因性、以前言われた言葉が脳裏をよぎる。
いつ直るのか、どうすれば直るのか、それとも絶対に直らないから別の道を探したほうがいいのか、聞きたいけれど上手く言葉にできなかった。
記憶の無い颯太の前で言葉を選ばなくてはならない中聞けるような話ではなかった。
「ソーシャルワーカーさんと面談の日程ですが――」
看護師に言われ手帳を取り出す。
こまごまとしたことを決め、二人で自宅へ帰る。
「スーパーへ寄ってもいいですか?」
隣をおぼつかない足取りで歩く颯太が言う。
「何か、必要なものでもあるのか?」
「病院でカレーライスの作り方を教わったんですよ!僕カレー好きなので」
ニコニコと笑う颯太が以前カレーを作ったとき「隠し味は砂糖としょうゆをいれますよ」と言っていたときの顔と重なる。
「それじゃあ寄って帰るか」
家から一番近いスーパーに寄る。
かごは俺が持って、そこに颯太が食材を入れていく。
元々の気性なのだろう。
飛び跳ねたりすることが無いので、こうしていると子供のようには見えない。
このままでいいのではないかと心をよぎる。
粗方買い終えて会計をして帰る。
スキップでもしそうな勢いの颯太をほほえましく思いながら家に帰った。
「手伝おうか」
そう聞く俺に、「大丈夫ですよ!」と言う颯太だが、そもそも知識はかなり失ってしまっていることが分かっているのだ。
心配で並んでキッチンに立つと、颯太は野菜を切り始めた。
その手つきは思ったよりずっと今までの颯太と同じで、体が覚えているというのはこういうことかと思った。
「戻っていていいですよ?」
それでも、なにかあったらすぐに手をだそうと思い、ダイニングテーブルに腰掛けた。
2時間以上かけてカレーは出来上がった。
見た目はごく普通のカレーだった。
これなら、今のままでもやっていけるんじゃないか?そんな気がした。
「いただきます」
手を合わせてからスプーンで一口すくって食べる。
普通においしかった。
カレーは誰が作ってもそれなりにおいしいというがそのとおりだと思った。
けれど、颯太が今までに作ってくれたカレーとは全く違うものだった。
目の前にいるのは颯太とはもはや別人なのだ。
そう思うと涙が止まらなかった。
もはや恋人と呼べるかも分からない相手がもういないということを痛感して泣くなんて、過去の、いや現在も含めて俺は馬鹿だ。
あれをやってやればよかった。もっと話をしておけばよかった。
そんなことばかり思い浮かぶのだ。
「どうしました?」
心配そうな顔で颯太が顔を覗き込む。
そこに嫌悪感や落胆はなく、ただただ俺を心配してくれていることが分かった。
「俺の名前を呼んでくれないか?」
食事中で、しかも何も覚えていない颯太に言うことではないとは思ったけれど今どうしても颯太に俺の名を呼んで欲しかった。
「新(あらた)さん」
「もう一回」
「新さん」
ますます涙は出てくるけれど、他のやや舌ったらずになってしまっていた発音に比べ俺の名前だけは昔のようにいえている。
そこで初めて記憶を失う前もしばらく名前を呼ばれていなかったし呼んでいなかったことに気がついた。
自分で何もかも手放してしまったことにようやく気がついた。
◆
心配する颯太をごまかしてカレーを飲み込む。
それから、颯太を寝かしつけると寝室を出た。
テーブルに置きっぱなしにしていた、スマートフォンが点滅している。
メッセージの受信を知らせていた。
手に取り確認すると、以前数回セックスをしたことのある女性からだった。
会いたい旨書いてある内容に削除ボタンを押すか否か悩む。
俺の恋人だった颯太はもういないし、誰かに支えて欲しい気持ちが無いといえば嘘になる。
けれど、颯太ののことを忘れられるかと言われれば分からなかった。
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