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ふたり沈殿死


  わたしは何時も気を張って過ごしていた。もしこのドアを開ければわたしじゃない女の子が居て、彼と体を重ねているかもしれないだとか、ベッドのシーツが少しでもシワついていたりだとか。そんな事に敏感に反応してしまうわたしは異性との付き合いに怯えていたのだ。いつからか浮気や男女のいざこざに人一倍敏感で、自分に興味が失せて必要ないと言われてしまうのが怖かった。


「君を愛してるよ」
「…わたしも、愛してる」


  彼を信じていていたいといえばそれは真実で、そして信じ切るという事が怖いという事もまた真実で。わたしはその狭間に揺れていた。わたしにとってそれだけ安心出来る唯一の居場所だった。大好きな彼は長くて綺麗な髪は女のわたしですら嫉妬してしまうほどのサラサラとした綺麗な金色。スポーツで忙しい筈なのに彼はわたしの所へ必ず帰ってきた。ただいま、と優しく言葉を発する彼を見て幸せだと感じた。そんなことを悩む事も忘れて彼の優しい言葉を信じ始めていた頃だった。
  ほんの小さな事だった。掃除をしていたら気になるゴミが捨ててあっただけ。もちろんわたしの髪は照美ほどは長くはない。じゃあこの黒くて長い髪の毛は誰のだろう。丁寧に集めたように綺麗に捨てられていた。


ーーーねぇ照美、貴方の髪はこんなに真っ黒じゃないはずだよね?


  もう時間は遅い筈なのに、部屋は暗かった。わたしは電気を付ける気力さえも失ってしまっていて、彼の部屋に小さくうずくまって居た。するとただいま、と彼が玄関を開ける音がしてそっと息を潜めた。


「あれ?居ないのかな」


  静かに靴を脱ぐ音、携帯を開く音。続いて彼の声が静かな玄関に響いた。


「もしもし、ああ今着いたよ。彼女今はスーパーにでも行っていると思う、うん。そうだ、明日から彼女は仕事で外に出るんだ、その時、会おう。楽しみにしてるよ」

「ああ、僕も、愛してる」


  わたしに言うような、優しい声が玄関に響いた。わたしの心臓はまるで何キロもの距離を走り切った後のように、激しく波を打っていた。そうか全部嘘だったんだ、信じていたわたしが、馬鹿だったんだ。わたしは最初から疑っていたじゃないか、男の人は浮気を軽々としてしまうものなんだと。携帯を閉じる音が響くと同時に立ち上がり彼の部屋から顔を出した。


「……!」


  綺麗な瞳は大きく見開かれわたしをその目に写した。最初から信じてみようなんて思わなければ良かった。彼に向かって笑ってみせると考えていた言葉を静かに紡いだ。


「っ違うんだ…!なまえ、」
「もう必要ないみたいだね」
「…!」
「お幸せに」


・・・


「え?今日くるの?晴矢ってわたしの家すきだね」
「いいだろ、お前の家のこたつ気に入ってるんだよ」
「わたしに会いにくるわけじゃないのね…」
「そういうわけじゃねーって!」
「まあ…何もおもてなし出来ないけど!来ていいから」
「おーし!じゃあ練習終わったら向かうからな」
「あ、シャワーは貸さないからね!」


  わたしの話も聞かず機械の向こう側の騒がしかった音は綺麗に消えた。かすかに残ったのは静かに響く機械音だけ。ごちゃごちゃとしている私物を見て、ため息をつくと重い腰を上げてベッドから立ち上がった。晴矢たちはおひさま園で出会った幼馴染、むしろ家族と言ってもいいだろう。一流のプレイヤーである彼らに対しわたしはただ会社へ就職するようになったがこれでもすごく幸せである。前もよく遊びに来ていた晴矢たちだけれど、わたしがまた一人暮らしを始めたころからもはや住み着いているように遊びに来てくれた。また来てくれるという約束は内心は嬉しかった。一人で生きていけると思っていたはずなのに、あの日から心が寂しいと叫んでいる。自分の部屋を見つめ直すとあの日の電話口の声嫌でも思い出す。


  一ヶ月ほど前あの家を出た。そして照美の連絡先も全て消して自分の連絡先も変えた。漸く私物も整理し終えたかと思えば、忙しさに身を任せ夢中で仕事に没頭し続けた結果がこの様だ。部屋は寝るためだけにあるようなもので、散らかり放題足の踏み場もない。以前の整理が得意なわたしは何処に行ったのだろう。幾分人を呼ぶ事が出来る部屋にまで片付け終えた頃、既に日を跨ぎそうな時間を指していた。そろそろ来る時間だろうと構えていると、家のチャイムが響いた。見ると玄関で晴矢が何処かソワソワとしていてその様子にわたしは笑いを堪えた。ドアを開けると晴矢はわたしの横を素早くかけていき勢いよくベッドにダイブする。玄関にはお土産か何かであるビニール袋が転がっている。ため息をついてそれを片付けるとわたしもテレビを付けてこたつに潜り込んだ。もうこれは掃除なんてしなくて良かったんじゃないの?しわくちゃになるシーツを見て、これからもっと酷い状況になるなあと安易に予想出来た事に、肩を落とした。


「何持ってきてくれたの?」
「冷蔵庫にあった物を適当に詰めてきた、そういえば腹減ったわ」
「…今何時だと思ってるんですか」


  袋の中には一人暮らしにはありがたいお米と、お菓子だとか、ふりかけだとか、嬉しいものを沢山持ってきてくれていた。


「…今ベーコンぐらいしかないけど、食べる?」


  わたしがそう言うと、何を言っても振り向かなかった晴矢は勢いよく顔を向けた。ただのベーコンをバターと醤油で焼いた物と、余ったご飯と持ってきてくれたふりかけ。質素だけれど案外美味しいんだよなこれが。本当はちゃんと作りたかったんだけれど。


「あ、ヒロトは元気?」
「…この前試合で会ったけど、相変わらずだったぜ」


  むすっとした晴矢を見て年を取っても仲良しなお日さま園のみんなになんだか温かくなった。「杏ちゃんも玲名も最近会って元気そうだった」またみんなで集まりたいね、そんな流れであったはずが晴矢は急に黙り込みわたしを見据えた。


「実は今日純粋に遊びに来ただけじゃねぇんだ、頼みがあって、来たんだ」
「…?どういう事」
「自業自得だと思ったけどな、何か違う気がしたんだよ。お前が、何時まで経っても寂しそうな顔するから」


  女の子の友達以上に目の前にいる男はわたしの事情を知っていると思う。どうして暮らしていた家を出てまた一人暮らしを始めたのか、よく遊びに来てくれた晴矢と同じチームである風介は話を聞いてくれたのだった。そしてなによりまたチームメイトである、あの人。照美が同じチームであるから、もしかしたら話を聞いているかもしれない?照美は浮気をしていた。話をする必要もないとわたしは黙って荷物を詰め込んだ。呆然と立ち尽くす照美に二度と会いたくないとさえ思った。言い訳なんて聞きたくないから必要ないと言われたくなかったから、逃げたんだった。


「…照美は、元気…?」
「…」
「電話の人と幸せに過ごしてる…?」


  まるで何かを言おうか言わまいか、考えている様子にわたしはじっとその時を待った。眉間にシワを寄せて話そうとしている姿に、少しだけ嫌な予感がした。


「アフロディ、一ヶ月くらい前から体調崩してんだよ」


・・・


  こんな日には何か体を動かしたいと思う。暖かく、風が気持ちいい春の晴天だった。そして体を動かした訳でもないのにわたしはぐっしょり汗をかいていた。嫌な汗だ。緊張しているのかキョロキョロと辺りを見渡してしまう。やっとの思いで辿り着いたのはサッカーグラウンドだった。終わりが近いのかグラウンドの整備をしていて、活発な声は聞こえて来なかった。ベンチに座りその光景を覚悟を決めて視界に入れる。昨日晴矢が話をしてくれた事によってもう一度話をする決心がついたのだ。グラウンドを見渡せばわたしの好きだった長い金髪がキラキラと輝く。見付けてしまった彼にドキドキと胸が高なり唇を噛み締めた。


  一ヶ月前あたりから照美の体調は優れず、食事も満足に食べれていないらしい。行われた合宿では夜魘されてた所を偶然見つけた晴矢が慌てて照美に声をかけたそうだ。照美は何かに怯えているように体を震わせていた。朝魘されていたと言えば、照美は何も言わず謝るだけだった。プレーには支障は出ていないが、何処か痩せたように感じるという。帰ってご飯は作ってもらっていないのだろうか、浮かんでくる事は照美の心配事ばかり。ゆっくりと丁寧にグラウンド整備をする照美を見て、切ない気持ちで一杯になった。
  その時、照美が振り向いた一瞬わたし達は視線を合わせた。驚いたようにわたしの居る方向へ顔を向けると、照美の綺麗な唇が微かに動いた。わたしの名前を呼んでいるようだった。呆然として立ち尽くすわたしに照美は駆け寄ろうと動き出した。まるでスローモーションのように時がゆっくりと流れて行く。この場所から逃げようと立ち上がったその時、頭の中が真っ白になった。


「…!アフロディ!」


  時間が流れているのかさえも疑った瞬間だった。そのくらいスローモーションに、照美が倒れたのだった。その音に気づいたチームメイトが駆け寄り声をかけていく。肩を支えられてぐったりする照美は弱々しくわたしを見つめていた。照美が日陰に寝かされて居る姿を遠くから見ている事しか出来ない自分がもどかしく感じる。どうか力無く垂れる細くて白い手を握り締めたい。凍りついたように動かなかった足が溶けて一歩また一歩と、歩み寄る事が出来た。グラウンドの出入り口まで顔を出すと、それに気づいた晴矢がわたしを照美の元まで連れて行ってくれた。「照美、」久しぶりに呼ぶその名前は情けなくもカタカタと震えていた。


「こいつちょっと医務室に連れて行くから」
「うん、」
「…一緒に居てやってくれねーか」


  気を利かせてくれたのか晴矢と風介は照美をベッドに寝かせた後「また連絡してくれ」と直ぐに去って行った。他のチームメイトも興味が有るのかわたしをジロジロと見つめていたが、二人が帰って行くのを見て次々と帰宅して行った。医務室に残ったわたしは何かする事も無く、照美の顔を眺めていた。自然と思い出される一ヶ月前の言葉。二度と会うはずかないと思っていた彼が、今わたしの目の前にいる。近くで見る彼は前より痩せていた。食べられていないのだろう、痩せすぎている腕を見て思わずその手を握り締めた。う、と苦しそうな声が聞こえて慌てて手を離す。強く握り締めてしまったのか、と思い照美の顔を覗いたが苦しそうに眉間にシワを寄せていた。シーツを力一杯握り締める姿に再び駆け寄る。


「照美!」
「っ…」
「照美、大丈夫!」


  酷く青白い顔をした彼は、何度も同じ言葉を呟いた。『行かないで』何度も何度もその度照美の頬を伝う水滴はわたしの心は何かで塞がってしまったかのように苦めていた。そして照美に掴まれた腕が強く掴まれすぎたのか、赤く熱を帯びていた。空が赤くなった頃、規則的な呼吸が聞こえようやくゆっくりと椅子に座った。そのまま携帯を開くと着信が一件、晴矢からだった。きっと心配して連絡をくれたのだろうがその着信に折り返し電話する気になれず、静かに携帯を置く。「照美、」思わず呟いたわたしの声だけが響いた。
  …綺麗な顔。こんなに長く照美の顔を見つめるのは何時ぶりだっただろう。手を未だに離さないのはわたしが照美にまだ依存している証拠だ。


  それから空が薄暗くなった頃、うっすらと目を開けた照美はぼんやりと天井を見ているようだった。そして握りしめていた手に少しだけ力が入る。「ここは、」目の下に大きな隈を作り、目を細めゆっくりと目を開いていく。そしてわたしを視界に入れた瞬間、信じられないとでも言うような表情をし視線を反らした。


「どうして、君が、」
「…晴矢に今日、来るように言われたの」
「そう、情けない所を見せてしまったね、ごめん」
「…具合はどう?」
「大分、楽になった」


  …もしかして一緒に居てくれたのかい?続けられた問いに答えられるはずがなく、わたしは俯いた。浮気をして自分を捨てた男の前に何故また現れている事が惨めに思えてきたから。これも全部晴矢たちのせいだ、わたしがまだ未練があることを見抜いてここに呼んでまた同じことを繰り返させる。ここに居て今更照美に何を言えばいいのだろう。頭の中が消しゴムで綺麗に消されてしまったかのように真っ白で、何も考える事が出来ない。


「…もう大丈夫なの?」


  照美を見る事も出来ず、震える声でそう言う事が精一杯だった。


「…大丈夫じゃない」
「…」
「全然、大丈夫なんかじゃないんだ、」
「え、」
「君がいなくなってから、何もかも真っ白で、わからない、自分でもわからない、けど」
「…電話の人と、上手く行ってないの、?」
「…っ、」


  電話の人。そう言うと照美はわたしの手を強く握り締める。そういうこと、わたしはあなたの二番目にしかなることが出来ないんだ。上手くいかなくて当然よ。そう言ってしまいたかった、けどわたしの目からは止めどなく雫が一つ、また一つと落ちて行く。あの時から枯らしていた涙がまたボロボロと落ちて、あの時の映像が鮮明にわたしの頭の中でループしていく。わたしは愛されていなかった。偽物の愛はもう要らない、握られた手はきっとわたしに縋り付くためでもっとわたしを惨めにする。早く離さなければ早く早く。「あなたなんて、嫌い」そう言えば全てはうまく収まったというのに。わたしの手もまた同じように、まるで彼と離れたくないとでも言うように強く握り締めていた。鼻を啜る音が聞こえ、顔を上げたと同時にわたしは照美の腕に包まれる。息が出来ないくらい強く包まれ、わたしは思わず小さく声を上げるが一向に強さは弱まらない。照美?と問いかけると彼は震えた声で言葉を紡ぐ。


「ごめ、ん」


  何でこんなにも一言で全てが伝わってしまうんだろう。関係ない、と思っていながらもわたしは愛という火の海に飛び込んでしまうのだろうか。強がりな彼からの一言は、伝えきれないほどの後悔が詰まっているようで。ああ、また再発していく。わたしは、この人に溺れていくのだろうか。


「いま、だけだから…」


  そう言って、彼の背中に手を回すわたしも溺れて死んでいくのだろう。


12.1029