secret


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 何処か透き通るような色をした、溶けてしまいそうなほど儚げで、柔らかな髪の色。括り上げられた髪は無造作で、はらはらと落ちた後れ毛から覗くその肌は、ずいぶんとなまめかしい白磁色をしている。

「……お兄さん」

 ふわりと期待通りの柔らかさで髪を揺らしつつ、いきなり話しかけてきた愛らしい少女に、私は夢中を漂っていた意識を引き戻した。ともすればうっかり、か弱そうなこの娘をどうにかしてしまいそう。ご覧、この小鳥のように晴れやかで軽やかで愛らしい声、もいで飾れそうなほど小さくて綺麗な両手足、女性の片鱗を見せるが未だ子供らしい小ぶりな体躯――

「これ、いただけますか」

そして私を見つめるのは黒くて丸い、澄んだ瞳。これがまた堪らない。彼女が差し出すつまらなさそうなタイトルの本を受け取り、私は燻る情欲を押し殺して、「1200ベリーになります」と使い古した笑顔を貼り付けるのだった。

 彼女がこの店を初めて訪れたのは一週間前。私は一目見た瞬間に、この出会いを運命だと悟った。その仕草ひとつ、パーツひとつ取ってみても、どれしもが完璧なたどたどしさ。断じてロリータコンプレックスなどという俗な嗜好ではない、それは疑いようもなく私の理想の少女像――一目惚れだった。
 当然これっきりには出来なくて、その日、私は躊躇いなく、店を出た彼女の跡をつけた。無論ストーカーのような陰湿なものではないし、それが証拠に、私は把握して以来用もなく彼女の家を訪れたりはしていない。私は単に彼女のことが知りたくて、あわよくばもう一度出会う偶然を演出したかっただけだ。なにせ私がこれほど惹かれるのだから、きっと彼女もそれを望んでいるに決まっている。生来人見知りで陰気な私は周囲に聞き込みなぞする勇気はなかったが、おそらくはあのアパートで、一人暮らし――なのだろう。それは危ない。あの愛おしさとなれば、一体どんな奴に目をつけられるか。
 そんな出会いから数日後、彼女との再会を待ち侘び、そろそろ偶然を装って彼女の家に向かおうかと思案を巡らせていたところで、なんとあの少女が二度目の来店を果たしてくれたのだ。ああ、ああ、こんなにも喜ばしいことがあるだろうか? 何としてもこの機会に、次に会う約束を取り付けなければ!

「――おや、すいません」

 多少不自然でも構わない。きっとこの子なら何も疑わず、私のことを信じてくれる。焦らず、なるだけ落ち着いた声で、私は浮き立つような嘘を一つ。

「これ、落丁本ですね。あいにく在庫が切れてまして、後日また取りに来てくださって良いですか」

彼女はこころよく、構いませんよと微笑んだ。




 彼女との再会の約束が果たされるのは一体いつになるだろうと、今か今かと待ち焦がれ、おかげで仕事なぞ到底手につかない。まるで恋に落ちた娘のようだ。今すぐにでも、名前も知らぬあの少女を手篭めにしてしまいたい。私をこんな木偶の坊にした責任はきちんと取ってもらわなくては。

 ――そしてようやく、その日はやって来た。

 清算所に立ちつつ、脳内で彼女への思慕を綴るのに夢中になっていた私がふと視線を上げれば、ばらばらと客が点在する店内で、本棚を仰ぐ小さな少女の背中を見つけた。何度も夢に見たその姿、見間違えようも無い運命の相手。不覚にも来店に気がつかなかったのは、彼女がこんな早朝に訪れたことは今までなかったが故だ。
 しかしやはり、というべきか、なんと理想通り……いや理想の更に上をいく愛くるしさなのか。しなやかな曲線を描く白い脚に、思わず舌舐めずりをしたくなる。髪の隙間から覗くうなじに、思わずかぶりつきたくなる。何故早く話しかけてくれないのだろう。恥ずかしがることなど何も無いというのに。

 早く、早くと気が急いた。無防備な彼女の背を乞うように眺め回す。その頭のてっぺんから足の先まで、全部、自分のものにしてしまいたい。その細い胴を折れてしまいそうなほど抱き締めたい。彼女の足首を逃れられないようにへし折りたい。あのゆらゆらと誘うように揺れる、透き通るような髪に触れたい。そう、それは一体どんな感触をしていることだろう。確かめたい、今すぐ彼女に触れて――


「――ナマエ」

 向こうの方から、低い男の声がした。誰かの名前を呼んだらしい。何故だか私の視線の先の少女が、気を引かれたように首をかしいだ。流れるように動く毛筋につい見惚れそうになる。
 いや、だが……なんだ、何かがおかしい。当然のように少女の横に立った、アレは誰だ? 背中に物騒な得物を携え、葉巻を咥えた白髪の偉丈夫。隣に並ぶと尚のこと際立つ、あの子のか弱そうな背姿と言ったら。あの男、私の愛しい少女に何をしようと言うのだろう。どうやら彼女とは知り合いのようであるが……となれば、この男が先ほど呼んだ名前はあの少女のものなのか。ああ、私の知らないあの娘の名前を、別の男の口から知るなんて――この上なく不愉快だ。

「どれが取りてェんだ」
「……不本意ですが、一番上の段の左から三番目の緑の背表紙の本をお願いします」

男は少女――ナマエと言うらしい、知った経緯は残念であるが、なんとも愛らしい響きではないか――の指示通りに本を抜き取り、そのまま小さな手のひらに引き渡した。見れば、男の背には正義の二文字……海兵だ。それも、あの文字を背負えるのは将校クラスの者のみと聞く。荒事に興味はないが、相当な実力者には違いまい。そんな奴が、一体あの子と何の関係があるというのか。

「合ってんのか、それで。そりゃ理学書じゃねェか」
「ボルサリーノさんのオススメなんです。内容は高校の基礎レベルですし、そう難しいことは書いてないですよ。わたしもご覧の通り文系ですけど、この程度の内容なら分かります」
「……?」
「あー、まあその、ちょっと年齢が上の学校の……言語派と数字派みたいな感じで分かれてて、なんというか……もういいです」
「……そうか。で、なんでそんなもんを?」
「殺菌とか消臭とかって元を辿れば化学反応ですからね。覚えといて損はないかと思いまして」
「あァ……なるほどな」

耳をそばだてて聞いていても、さっぱりわけのわからない会話である。が、男のやけに親しげな馴れ馴れしい口振りは、やはり不愉快だ。一体何様のつもりなのだろう。

「スモーカーさんは買わないんですか、本」
「必要に迫られねェ限りはな」
「ふーん……あ、それならあれ買ったらどうですか、『あなたの奥さまの口癖、「今日の夕飯なにがいい?」へのオススメ回答100選!』てやつ」
「お前はそれでいいのか、ナマエ……」
「冗談です。わたしはあなたの奥さまではありません。ところで今日の夕飯何がいいですか?」
「……金曜日だし、カレーにでもしたらどうだ」
「え……」
「どうした?」
「いや、……ちゃんと言うの、珍しいですね?」
「まァ、食いてェもんというより一般論だが」
「それは海軍だけのでしょう。まあ、とはいえそれでも嬉しいです」

 ――なんだあの会話? なんなんだ、あの会話は? まるで、まるで……いや、それはあの子自身が否定したではないか。だが、彼らの口振りからして、恐らく同じ家に住んでいる――というのは事実らしい。なんということだ、私の愛しいナマエが、清らかな乙女の貞操が、あんな凶悪そうな男に脅かされてしまっている。明るく振舞ってはいるが、あの子がそんなことを望むはずがない。となれば男の方が束縛しているに違いなかろう。そうだ、そうに違いない。ああ海軍はどうなっているんだ、あんなロリコンなぞ、今すぐ断罪して然るべきだろうに!

「因みにスパイスの好みとかあります?」
「特にねェ、が……そこから作るのか」
「勿論です。あとカレーのお肉は何がいいですか?」
「オーソドックスに豚でいいんじゃねェか」
「スモーカーさんの口から出る豚って単語の響き、なんとなくやばいっすね」
「何処がだ」
「たはは、んじゃそうします。腕によりをかけて作りますね」
「あァ……頼む」
「はい。朝から本屋付き合わせといてあれですけど、スモーカーさんもお仕事頑張ってくださいね」

ふわりと男に向けられた、あどけない笑顔。ああ、妬ましさに胸焼けを起こしそうだ。あの微笑みがどうしてあんな男に向いているのか。あれは私に与えられるべきものなのに。可哀想なナマエ、あんな野郎に縛り付けられて――私が救ってあげなくては。
 そんなとき、ふ、と男の手が持ち上がった。瞬間怒りでむしろ冷え切った頭が、時間の流れを緩慢にする。少女の小さな頭に触れる無骨な手のひらが、私が焦がれた、あの柔くて透き通るような繊細な毛先をはらりと揺らした。

 ――それに触れていいのは私だけのはずだ。

 ぷつりと殺意が漏れ出した。あの娘に触れるのを幾度も幾度も夢想した。側頭部をなぞるようにあの髪を撫で上げたとき、どの様な形に変化するのか、あらゆる可能性を想像した。それを、私より先に叶えたあの男を、どうして許せるというのだろう。理性をかなぐり捨てるように、私の胸の内で呪詛が紡がれる。ああ、妬ましい、卑しい、許せない、許さない、殺してやりたい――だが事実不可能だ。アレは海兵、しかも将校。となれば話は簡単だ、あの男が囲い込んでしまったあの愛し子を奪ってしまえば良い。いっそあの子を殺してしまって、私の記憶の中だけに仕舞い込んでしまうのも良い。それがいい、そう、そうだとも――



「――」

 男が、こちらを見ていた。

 全身が総毛立つ。射るような視線に、ヒクと喉が痙攣する。気付かれた、気付かれてしまった――その事実に私は異様なまでに怯えていた。なんて目だ。猛獣が歯を立てるときのような、首筋にナイフを突きつけるような、しかしこちらを人とも思わないような、冷え切った眼差し。冷や汗が吹き出し、噛み合わせた歯がカチカチと音を立てた。

「……スモーカーさん?」
「気が変わった」

 男は本棚から一冊本を抜き取って、あの子に待つように告げてから、まっすぐに、こちらに向かって、歩いてきた。視線が上げられず、私は瞬きを忘れたまなこで奴の足の動きだけを追う。迷いなく、カウンターの正面で足が止まった。私の目の前に本を一冊投げやって、葉巻を咥えた男はゾッとするほど冷淡な声を口にする。

「値段は」
「あ、……せ、1350ベリー、で……」

紙幣といくつかの小銭が落とされた。震える手で拾い上げ、そろりと視線を上げれば、冷めきった男の顔がそこにある。ああ、こいつさえ居なければ――と一瞬漏れ出した憎悪。しまったと思う間も無く素早く反応を示され、男は私の腕を軽く掴んだかと思うと、低い声で嘯いた。

「――話があるなら聞いてやる」
「あ……あ、ひ……ッ」
「お前が誰をどう想おうと勝手だが……あれだけ剥き出しの殺意を甘んじて受け流してやれるほど、おれァ人が良くねェんでな」
「は、っ……、あ、あの娘は私のものだ、貴様なぞ、貴様なぞが触れていい筈が、……!」
「……なんであいつはまた、こんなタチの悪ィ野郎に好かれてんだか」

独り言と共に呆れた様な溜息を吐く男に、ずいぶん後方にいる少女が不思議そうに首をかしげた。こちらの声は向こうには聞こえていない、否この男が聞かせまいとしているのだろう。

「――あれはてめェにゃやれねェよ。少なくとも、好いた女に殺意を向けるような奴にはな」

 うるさい、お前なぞに何が分かる――と反論する私の声は、ぱくぱくと餌を食らう魚のような口の動きに消えていく。ああなんて、なんて哀れなナマエ、こんな奴に捕まって、さぞや憂き目に合っているに違いないのに、私には彼女を解放してやる力がない。
 私の手を払い、男は購入した本を手に取った。せせら笑うように目を細め、葉巻を指の間に挟みながら、そいつは煙と共に吐き捨てる。

「もし諦めがつかないなら敢えてこう言ってやる――あれはおれの女だ。てめェにくれてやるもんは何一つねェよ」

「……!」

男は声を失った私なぞには目もくれず、身を翻して当たり前のように彼女の隣へ帰っていく。愛しいあの子はまだ不思議なものを見るような顔をしていたが、男が戻ってきた途端、またあの囀るような声で話し始めるのだ。心底親しげな声で。
 結局、彼女が会計を訪れてからも、私は視線すら上げないまま、乾いた声で応答することしかできなかった。ひたと私を捕らえて離さない男の視線は、私が彼女を見ることすら許そうとはしていなかった。萎縮しきった内臓は、既に限界を訴えている。店を出て行った二人を、私はただ虚しい気持ちで眺めることしかできなかった。

 臆病な私には、彼女をものすることが、できそうにない。















「……お前はもっと、自分が妙な奴に好かれやすいってことを自覚した方が良いんじゃねェのか」
「失敬な、自覚してるからこうしてスモーカーさんに付き合ってもらったんじゃないですか」
「いきなり尾行された、たァ……妙な趣味の奴も居るもんだな」
「わたしの愛らしさは人を狂わせてしまうんですね、罪深いです」
「燻されてェか?」
「ジョークです」
「…………まァいい。ほら、ナマエ」
「おわっ、ちょっと……なんですかこれ」
「おれァ要らねェ。お前が読め」
「はい? じゃあなんで買ったんですか、この本」
「……口実だ」
「あ、そういやなんか話してましたよね。怪しかったけど何かされたわけでもないんだし、スモーカーさん怖いんだから、脅したりしちゃ可哀想です。……因みに何言ったんですか?」
「さァな」

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