乙男#1
※16000打、かんなさんリク
※華視点私が管理棟のキッチンで夕飯の支度をしていると、背後に人の気配がした。
コツコツというこの靴音はわざわざ振り向いて確かめなくても分かる。――伊佐奈さんだ。
イガラシさん拉致事件をきっかけにうちの園が彼の水族館と交流を持つようになって以来、こうして時々ふらっと遊びに来るのである。
「蒼井。何作ってるんだ?」
「えっと、クリームシチューです」
私は具材の野菜にざっくりと包丁を入れながら答えた。
「この暑いのにシチュー?」
「ええ、園長が急に食べたいと言い出したんです」
「そうか。なら精々バターとラードを間違えないよう注意しろよ」
伊佐奈さんは憎たらしいけれども核心を突いた忠告をしつつ、口笛を吹きながら私の手元を覗き込んだ。そしてまな板の上に乗った大量の人参を見つけるとあからさまに声を尖らせる。
「おい、お前。シチューって言ったよな?」
「は、はい」
「何故人参がこんなに…。肉は?玉葱は?芋は?買い忘れたのか?」
「あ、いえ…肉はその…残念ながら無し、です。玉葱や芋は少しは入れますけど、園長が人参を増やせとうるさくて」
理由を説明して顔色を伺ったが、やはり伊佐奈さんが「はいそうですか」とあっさり納得するはずはなかった。
「は!?シチューなのに肉無し!?有りえんだろ!」
「ウーン…ま、まあこれはこれで美味しい…と思いますよ…?」
私が苦しいフォローをしつつ肩をすくめると、私の顔と人参を交互に見つめていた伊佐奈さんは顔を強張らせたまま押し黙ってしまった。
「あ、やっぱり駄目ですよね、すみません!じゃあそうだ、代わりに何か用意しますね?確か冷凍庫にマグロが…」
「――いや、いい」
「え?伊佐奈さん…?」
「椎名が食いたいと言ったんだろ。俺も同じでいい」
「!」
私は驚きのあまりまじまじと伊佐奈さんを凝視してしまった。
どこか恥らうように頬を染めて口を尖らせる彼はまるで、まるで――こんなこと言っても誰も信じてくれないかもしれないが、恋する乙女のようなのである。
出遭った当初はあんなに園長といがみあっていたのに、これは一体どういう心境の変化だろう。毒でも飲んだのだろうか。
「そう。俺もこれを機に野菜嫌いを克服したいしな…って何ぼさっとしてるんだ蒼井!手元見ろ手元!」
「え?」
指摘されてさっと視線を落とせば、私の緩んだ手のひらから握っていたものが滑り落ちるところだった。
――そう、包丁が。伊佐奈さんの足の上に。
「ぎゃあああああああ!!」
キッチン一杯に伊佐奈さんの絶叫が響き渡った。
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