ヲトメゴコロ.1



『ごめんね波江さーん。今日ちょっと遅くなるから』

スピーカーから雇い主のその台詞が聞こえた瞬間、携帯を握りしめる波江の手が小刻みに痙攣した。遅くなるすなわち晩御飯いらないの方程式が彼女の脳内でごうごうと地鳴りを起こしていた。が、彼女は見えない相手に向かって笑顔を作り、『そう、わかったわ』と明るく返す。見たものがこぞって逃げ出すのではないかと思われる笑みだった。





時は変わって同じ日の深夜零時過ぎ。
臨也は重い足取りで自らの事務所の玄関に歩み寄り、緩慢な動作で鍵を取り出した。いつもは飄々として見える、ときに他人を不快にさせる狡賢そうな狐顔は今日に限り珍しく疲弊している。
仕事の帰りに池袋の繁華街を通ったのがそもそもの間違いだった。あからさまに堂々と振舞っていたわけではないしさして悪目立ちもしなかったと思うが、臨也は常日頃からライバルの能力を過小評価して油断しがちだった。いや、むしろ家畜扱いすらしていた。
午後の取引きが思うように行かなかった臨也は若干虫の居所が悪く、駅までのタクシー代をケチってストレス発散に人間観察を楽しんでいた。鼻だけは無駄に利く静雄に嗅ぎ付けられてしつこく追い回されるまでは。
遡れば高校生の頃から臨也は静雄と喧嘩ばかりしてきたが、常人離れした体力馬鹿と殺り合うのは臨也にとって実はそう容易いものではない。
今日は静雄が放ったコンビニエンスストアのゴミ箱が肘を翳り、骨が砕けたかと思うほどの激痛が走った。思わず涙ぐんでしまったくらいだ。しかし長年のうちに蓄積された静雄の執念もなかなかのもので、臨也がよろけて蹲った隙にすかさず押し倒され、雑踏の中で無様な晒し者にされてしまった。
今回ばかりは臨也が懐にスタンガンを所持していなかったら本当に危なかったかもしれない。
彼はいつにも増して執拗な静雄を死にもの狂いで何とか振り切ったが、無事マンションに帰りついた現在、完全に体力を使い果たしていた。

(ったく、シズちゃんたらないわー。マジないわー)

臨也は鬱々とため息を吐きながら靴を適当に脱ぎ散らかし、廊下に上がった。
静雄に押し倒されたときの手の型が彼の手首にくっきりと痣を残し、赤く腫れてひりひり痛む。思い返せばあの瞬間、彼は静雄に妙なことを言われたのを思い出した。殺したいほど愛してる、とか何とか。あのときは真剣に命の危機が迫っていたこともあったし、自分が公言している人間愛のパクリ的なものかと思いさして気にも留めなかったのだが、今思えばなんとなく――。

「おかえりなさい」
「アレ?波江さんまだいたんだ?」

完全に自分の世界に入り込んでいた臨也は、事務室の扉を開けて初めて電気がついていることに気付き、キョトンとした。
波江はノートパソコンから顔を上げてちらりと雇い主に視線を寄越す。

「貴方こそ、遅かったじゃない。何してたの?」
「えっ、あー…ちょっとその、面倒に巻き込まれちゃってね」
「何をしていたの」
「いやっだから、ちょ!波江さ…!?」

尖った声で同じ質問を繰り返した波江は臨也の戸惑った声を無視して立ち上がり、黒いコートから除く手首をぐいと掴んだ。どさり、質感のある音を立てて臨也の身体が木机の上に倒され、低い呻き声がそれに続く。

「待って!これ――どういうこと!?」

デジャヴュ。引いて振りほどこうとした腕はふるふると震えるばかりでビクともしない。弟に関わることになると波江がときとして異常な力を発揮することは臨也自身も知っていたが、一体何の恨みがあるのか凄まじい握力がかけられている。

「どういうこと?」

波江は臨也の問いをそっくりそのまま繰り返した。

「は!?それはこっちの台詞よ!いつも通り貴方が帰ってくると思って作った私の料理がことごとく無駄になったわ。タラの香草焼きとバジルサラダとミネストローネ!!」
「え?あ、豪華な夕食をありがとう。おかずは明日食べ…」
「馬鹿。もう捨てちゃったわよ」
「捨てちゃったの!?」
「そうだけど文句ある!?貴方が平和島とイチャつくために私の努力を蹴ったと思ったら無性にムカついて即行ゴミ箱にぶち込んでやったわ!」
「イチャ…!?」

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