小さなしあわせ.1



※翠さんリク
※「冷たいくちづけ」の続き
※学パロ
※蠍×泥♀



「バ…カ。殴れるわけ、ねーだろ…」

クラスメイトの赤砂サソリは涙混じりに答え、こちらに向かって手を伸ばした。彼は私の丸顔の左半分を覆う長すぎる前髪を掻き分けてそっと口付けた。
拙くて、でもどこか優しくて。
いつもクールで怒りっぽい、どんなに悪質な苛めにも平然と澄まして私たちのことなど歯牙にもかけなかったサソリの本当の気持ちを、私はそのとき初めて知ってしまった。
彼は決して見た目通りの冷徹な機械人形などではなかった。限界を試すことで日常の退屈しのぎをしていた私たちの残酷な遊びが、ずっと彼を苦しめていたのだ。






うちの両親は私がまだ小学生のころに離婚した。
父はしがない芸術家のはしくれだったが、酒にだらしのない人で、家計のことなどで母とよく口論しては一方的に暴力を奮っていたのを今でもなんとなく覚えている。
離婚の後、私は当たり前のようにして母に引き取られ、遠い町に引っ越した。私は父よりも人間的に尊敬できる母が大好きだったから、友達と離れ離れになっても我慢したし、それを母に打ち明けたことはない。
けれど彼女は荒んだ結婚生活の末に心に深い傷を負っていた。慣れない土地での慣れない仕事に疲れ、精神的に余裕をなくした彼女は幼い私に向かって言った。

――こっち見ないで。あなたの目を見てるとイライラするの。

私の色素を欠いた青い双眸、父親ゆずりの丸い眼を彼女は酷く毛嫌いした。
私にはどうすることもできなかった。苛立ちの奥に見え隠れする母の不安を取り除いてあげたくても、その方法を知らない。せめて母が自分の目を見ずに済むよう目を合わせないようにした。
しかしそれが返って母の機嫌を逆なでしてしまった。発狂した彼女はあるとき私にナイフを向け、目を抉ろうとした。私の叫び声で母がすぐに我に返ったため結果的に命に別状はなかったものの、私の左目はほとんど視力を失い、瞼には醜い切り傷が残った。
その翌日顔に目立つ眼帯をつけて登校した私に、クラスメイトたちはこぞって怪我の理由を尋ねた。だけど本当のことなんて言えるはずがなかった。母が本心から私を憎んでそうしたわけではないと頭で分かっていても、客観的に見ればこれはおかしなこと。普通、親はわが子を傷つけない。
いくら時の経過とともに傷痕が薄れていっても、母がその日を境に態度を変え、私のことを執拗に猫かわいがりするようになっても、私はどうしても現実に納得することができなかった。平和な日常なんてものは簡単に壊れる。おだやかで優しい母があの日一瞬狂気に支配されたように、変わらないものなんて何一つないのだと知ってしまったから。
私は自分の存在を否定するこの傷を隠すため、前髪を半分伸ばして下し、焦点の合わない左目を人の目に触れないようにした。
ひょっとすると私は考えすぎなのかもしれない。
母は今も昔も心から私を愛している。あれは事故で、何かの間違いだったのかもしれない。
そうでなかったとしても傷はあくまでただの傷で、決して私自身の欠損を証明するものではないのかもしれない。
どんなに自分に都合のいい嘘で誤魔化しても、私は終ぞ漠然としたこの不安を捨て去ることができなかった。
傷を隠すのは、人が息をするのと同じように私にとっては当たり前のことだった。
時が経ち、高校生になった今でも親しい友達に傷のことを訊かれれば、昔転んで怪我をしたのだと偽る。それを聞いた友達は決まって申し訳なさそうな顔をして、それっきり当時のことを詮索してくることも前髪の下をじろじろ見ることもしなくなる。
それでいい。それでいいのだと思っていたのに。
サソリだけは違った。
親しい仲でなかったどころか侮蔑の対象だった彼に私は弱みとなるこの傷のことを話したことはなかった。近くでまじまじと覗き込まなければ分からないような薄い痕だ。恐らく、サソリとて今日初めて気付いたに違いない。
けれどもその瞬間、この傷痕を不意打ちで目の当たりにした人間がよくするいけないものを見てしまったような渋面が、彼の顔には浮かばなかった。
何か違う。自分にはそれが何なのか分からなくて、苛立つ。

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